斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
フォトアルバム

|

photo test

L9991701

すこしハイレゾの写真をアップ実験してみてます。

ちなみにこの人、LA在住の弁護士さんです。
サハン・サハン(ロバートケネディーの暗殺犯)やティモシー・リアリー氏の顧問弁護士してた人です。
おつきあいはもう20年を越え、すっかりおじいちゃんになりました。
この一枚は、M8 50mm f1.2(たしか)でとったもので、僕のお気に入りの一枚です。昨年のクリスマスカードに使ったものです。

|

このブログに写真が戻ってきました

L1031897

このブログに写真が戻ってきました。

ブログシステムのバージョンアップの際に、ドメインマッピングの設定の間違えがありました。

アドバイス・ご指摘をくれた方、いろいろとありがとうございました。
写真がないとほんとうにつまらない。

これから、いろいろな写真をアップさせてもらいます。

今日の一枚は、ジェームスボンドが乗っていたBMWのZ8という車。ガリバー自由が丘店展示。希少な一台。5000cc!! 急げ!!!

|

MagicSlate(マジックスレート)

初代Macの開発チームのメンバーとしてクイックドロールーチンを書いたビル・アトキンソンはその後、いまのPhotoshopの原型となるMacPaintという、マウスを使ったペイントソフトを書き、そのあとアップロフェローとなってマルチメディアの原型といえなくもないHyprerCardを書いたプログラマーです。

完全に標準言語として定着したいまのHTMLを彼がどう見ているか、興味深いところですけれど(どこかの雑誌でインタビューを読んだことが有るけど、悔しがっていた)、彼が上記のプロジェクトの合間にアップルに提案したタブレットマシンがあって、それがMagicSlateというものです。

僕はその原型のスケッチをみせてもらったことがあって(そのコピーももらいました。マッキントッシュ伝説というインタビュー集で紹介したことがあるけど、そのうち電子出版で配信したいと思っています)、ま、「そんな絵空事のようなハードは誰が作るんじゃい!?」という疑問も取材していて感じつつも、ま、形だけとるといまのipadに近いといえなくもない。Newtonという、ジョブス不在の時のアップルがかつて出していたPDAにも近いのですけど、Newtonなんて今の人は知らないですよね?

**

このNewtonラインは、ジョブスがアップルにもどってきて早々に打ち切られた。アップル創業当時からジョブスはソニーをライバル視していて、ま、ソニーは当時のアップルなぞ知らなくて当然でしょうけど、彼には家電フェチっぽいとろこがある。その証拠に、プログラマーがよろこぶような製品には興味が無いし出さない。打ち切った理由のひとつはそのあたりかもしれないと思ってます。

で、今日帰宅途中のタクシーの中で考えていたことが、「ハイパーカードはなぜ普及しなかったのか?」などというどうでもいいようなことなんですけども、つまり家電とIT機器の世代交代のスピードの違いとでもいいますか・・ま、なのでも今日のブログはあまり整理できていないかもしれません。

****

パソコンのソフトで、ある程度の完成度に到達したものはすべて捨たれてゆく、というジレンマがあります。WordもExcelもPhotoshopも、例外なく進化しつづけていかなければならない運命なのです。で、これがPCのアキレスのかかとです。

いっぽう家電というのは、しょっちゅうバージョンアップしている技術を導入するわけにはいかない。家庭用ゲーム機がいい例ですが、5年間はおなじハードで継続しないとならないわけ。これはデジタルテレビもDVDプレイヤーも同様です。

で、ソニーをライバル視しているジョブスが、「変化し続けないとならないIT機器メーカー」でコンシューマーを狙う手口として考えたのがデジタル・ハブという考え方なんだと思うんですよね。
変化の激しい部分はMacにまかせておいて、周辺機器は家電コンセプトでいきましょう、という。つまりITのパートはMacが一手に引き受けるから、あとはそこで吸収して家電ローテーションでいきましょう、というかね、

パソコンで売れるのは「ツール」です。というかパソコンは常に未完成でないとならない。
完成したら、姿を消してしまうものだから。たとえば、DTM(=音楽制作)のツール類。バージョンアップがなくなったら、専用機に姿を変えてしまう。形状はマウスやキーボードよりもつかいやすいですからね。でもこの分野は製造コストでの生存競争にまきこまれることになります。

その点、家電は、「ツール」ではなく「コンテンツ」が売れる。CD、ビデオ、DVD、家庭用ゲーム・・・ハード環境が安定している前提でないと、コンテンツ制作者があらわれませんから、「コンテンツ制作ロイアリティー」で儲ける。ハードはどんどんと陳腐化するけれど。

この両方をやるとしたら、どうします?というところで、iTunesが登場です。iTunesというのは当初はただの音楽管理ソフトでしたけど、いまは課金ソフトです。「iPodにアップル経由以外のコンテンツはいれさせないぞ」という番人です。もし将来アップルにアキレスのかかとが登場するとしたら、ここのしばりになると思います。

何がいいたいかというと、プログラマーであるビル・アトキンソンのマジックスレートと、ジョブスのiPadは形状が似ていますが、用途はまったく反対、ということです。前者は未完成で、ツールで進化するIT機器。後者は完成されていてコンテンツを視聴する家電、ということです。ハイパーカードもその象徴に思えてならない。

*********

iPadは安いですがそのコストはコンテンツでしっかりとカバーされる。これは任天堂がつくったビジネスモデルに似てる。しかしそのハードの非柔軟性を吸収するのはMacないしはPCで、そのコストもユーザーが負担することになる。だから僕たちのデジタルコストはこれからもどんどんと増えるんだと思います、PCコストは以前よりはずいぶんとやすくなったとはいえ、ね。

それにしてもジョブスはずいぶんとかわったやり方で自分の夢を実現している人です。その発想と強引さは、日本からは生まれてこないものかもしれないなぁ・と思うわけです。

まとまりのないブログでごめんなさい。

|

長い歯とつまようじと喫煙の関係

神経性の胃潰瘍で苦しんでいるここ数週間です。鬱気味でもあります。

ブログを書くのもつらい、という状況でしたから、今日、こうして更新できているということは、逆にすこし元気になってきたのかもしれません。

そういう自分がうこしうれしい。

*******

子供の頃、ラーメン屋などにおいてある「つまようじ」をみて、大人のマネをして使ったりしてみたという経験は誰しもあるのではないでしょぅか。

マネ、というのは、子供にとってつまようじは不要である、という意味です。子供は、歯にゴミがはさまるなんてことがない。僕もつい最近まで、つまようじの必要性なんて感じた事がなかった。

つまようじを使っているのは、大方がおじさんで、歯が変色し、すきっぱになっている人というイメージがあります。

最近、僕にもこのつまようじが必要になってきた。その原因がどうやら歯茎が萎縮してきたことにあるようなのです。最初は前歯、そして次に、炎症をおこした右の奥歯と、この「萎縮」は段階的に、あちこちに発生してきています。

うすうすこの「萎縮」が喫煙に関連していることに気づいてはいたのですが、どうもそれがまちがえないと思えて来たのです。そのメカニズムは次のようなものです。

喫煙すると、歯茎が萎縮してゆく→そして歯の根元が露出し始める→歯と歯の間に隙き間ができはじめる。
たしかに思い返せば、おじさんたちの変色した歯は、みな「長かった」ような気がしますし。

むかしのタバコは、どれもキツかった。禁煙ブームもないから、あちこちでプカプカやってた。値段も(税的に)安かった。けっか、たくさんのおじさんたちが、つまようじ生活を送っていた、ということのようです。

***********

何度か試みた禁煙は、うまくいってません。
タバコが、ここまで嫌われるのもいかがなものか、という気が喫煙者としてはしているのも事実ですが、歯が失われてゆくのもねぇ、という気持ちも最近つよい。

すこし、本気で、たばこの害について、考えないとならないなと思う今日このごろなのであります。

|

連絡いただいている方々へ

連絡をくれた方々、返事遅れましたが、ありがとうございます。

元気で活躍されているようで、なによりです。

今になって役に立ったと思ってもらえているようで、元の上司としてはそういう報告をありがたくおもっております。

僕はこういうのが苦手なもんですから、メールではなくこちらのブログで返事させていただきました。

これからもますまず活躍してくださいね。

|

「現象」の反対語を答えなさい

 

過去の自著の序文でも引用したことがあるのですが、小学生の国語の問題で、以下のようなものがあります。

 **********「現象」の反対語を答えなさい*******

答えは「本質」だそうです。この問題文と答えは、娘をもつ親になってはじめて遭遇したものですけど、ものすごく元気づけられる反対語ペア(ちょっと変な表現ですけど)です。 ちなみにこの時、僕は考えたあげく「原因」と答えてましたけど・・笑

***************

XXX症候群という言葉があって、たとえばAIDSSがこれ(症候群=シンドローム)にあたりますげど、要するに「原因がよくわからないままある現象が発生するので、暫定的に名前をつけよう」というのが「症候群」の意味です。目にははっくきりと見えるけど、その本質にあたる原因はわからない、だから、病気と断定することすらもできない。むろん治療もできない。しかし、これからそれに取り組む事にしよう、そういう意味あいがこの「症候群」には込められている。


人類は、ある現象が発生するその原因を見つけることで、その法則性を応用し、道具としてきました。原因さえつかめば、それを繰り返したり、防止することで、現象を再現したり回避できる、というわけです。

「石を打てば火がおきる」という法則性を発見することで「火を手に入れた」わけです。これをどんどんと拡張してゆくと「川が氾濫する周期を数えることで未来を予測できるようになった」のと同じです。(←これ、つまり、「暦」ですね) 

*************

さて、この反対語になぜ元気づけられるのか、という話をします。
それは、僕の仕事が、ゲーム企画者であることと関係があります。


ゲー ムの構造というのは、文章とちがって、回転構造をしているものです。映画は二時間、とか、小説は250ページというように、長さをもっていますが、ゲームの長さは定義不能です。何もしなければずっと待機して、それはちょうど回っているコマのように、ぐるぐると回転している。プレイヤーがそこに手を触れると、それに応じて位置を変え、そしてまたまた回転を繰り返す。何もしなければその状態がずっと続くけど、何かをすると変化し、その状態でループを繰り返す、これがゲームの長さが定義不能である理由です。

だから、言葉で世界観を書いて、物語を書いて、キャラクターの設定を書いて、そういう「線形な情報」をどれだけ用いて記述してもゲーム部分の記述にはなっていない。

いプランナーたちは、過去の名作ゲームにあこがれて業界に入って来ていますから、こういう「背景設定」をすこし変えて、それっぽく企画書を完成させるのが得意なんです が、肝心の「ゲームのエンジン」部分についてはどう触れていいのか、わからない。およそ9割の「企画者」と名乗る人たちが書く企画書はそこに触れていない。私見ですがこれは、専門学校とか職場の教育に原因があると思いますが、とにかくそこを考えることを完全に放棄してしまっている風潮があるのです。だから業界のプランナーのほとんどは「新しいゲーム」の企画者ではな く、「既存のゲームエンジンをそのまま使った焼き直し企画の、設定を考える人」となってしまっている。


たらしいゲームの企画とは、ゲーム性の根幹、いわば「骨」の部分を作り出す事です。曲でいうと、サビのメインメロディーです。世界観とか物語とか、キャラ クターの設定、というのは肉付けです。曲でいうと、バックの演奏です。メロディーを引き立たせる役割を担っていますが、メインのサビメロとは違う。

この「骨」というのは、ゲームの場合、ユーザーのコマンドを待ちながらぐるぐるとアイドルを繰り返している、ま、自分流の言い方ですが、回転構造をしているのです。

この回転構造というのは、フロー図で書くと、最後の部分が「最初に戻る」と書かれている事を意味しています。

ゲー ム企画者というのは、こういう構造をもっているものを世の中で見つけ、そこに肉付けをしてゆくことになります。だから、そのプロフェッショナリティーは、 社会に散在するさまざまな「現象」の中に、「原因」を見つけ、その因果関係を回転体にしてユーザーに渡してあげること、だと思うんです。回転構造体というのは、ずっとプレイヤーのことを待っていてくれる、という意味です。映画のようにどんどんと進んでいく事はしない。

それを受け取ったプレイヤーはゲームプレイを通じてその因果関係を再体験し、そ発見を体験しながら自分のスキルをあげてゆく。

いったん「火」を手に入れた(←これはたとえです)プレイヤーは、その火をおこす手法を自分の能力として取り込み、より大きな火をおこそうとする。つまり、より高次元の課題をクリアしながら成長感を味わう、というわけです。この規則性があるからこそ、プレイヤーが習得した能力があちこちで生きる。これがなければ、クソゲーです。これはルールの一貫性とも言いますが、ここでは規則性ということにします。

さて、そのためにゲー ム制作者側は、いろいろなイベントを仕込んでおいて、悩みながら試行錯誤しているユーザーを勇気付け、時に戒め、そしてうまくいった時にはおもいきり褒る、のが 仕事です。

この「褒める」とか「勇気づける」ことをしないゲームは、「なにをしていいのかわからないゲーム」とユーザーたちからは呼ばれるわけです。

これは、まさに「学習」のプロセスそのものです。明確なゴール設定だけでなく、プレイヤーのモチベーションが重要という点において。

**********

さて、こういう世の中に存在する意外な因果関係を発見して題材にする企画者は、「発見力」が試される。そのために、企画者が気をつけなければならない事は、「目に見えるものに触れ回されない事」です。その裏側にある、予想外の構造を感知し、そこに目を向け、むろんこれは目に見えないものであることが多いのですが、それを「心の目」で見る事が仕事です。いいかえると「現象に目を奪われない」ことが重要です。


で、「現象」の反対語が「本質」であるというこの小学生の問題は、いいかえると「目に見えているものは本質ではないぞ」と教えてくれているような気がするんだな。これは、まるで仏教の「心眼」の教えのようですけど、前述したとおり科学文明の本質なわけです。

 

***********

ふだん開発スタッフと仕事をしていて、かれらが一番効率的に仕事をしてくれる条件というのは、扱っている題材が「目に見える時」です。目に見える物を動かしたり、変化させることはみな大得意なのです。既存のゲームのキャラクターや世界観を変えてゲームをつくるのは、だからとても得意なんです。しかし、その内側にある構造そのものを作り直すのは、誰もが忌み嫌う。「目に見えないもの」を扱うことを、多くの人たちは得意としないからです。だから新機軸のゲーム企画は、開発プロジェクトの納期が遅れがちだったりします。

***********

ゲームデザイナーという肩書きがあります。つまり、これらの難題に挑む人の肩書きです。この肩書きは、「バランス・オブ・パワー」のクリス・クロフォードとか、「シムシティー」のウィルライトらが名乗り始めた、新種の造語でした。この「デザイナー」という肩書きに込められた意味は、「ゲーミングという手法は、技術ではなく心理表現である」という想いが込められています。

昨今、多くの若い開発者たちが、その意味を知らずに「ゲームデザイナー」と名乗っていますが、目に見える現象だけに目を向けて、既存のゲームシステムをなぞるのであれば、「ゲームアレンジャー」のほうがいいように思うんです。

「現象」の反対側にある本質を見つけるには、目ではない器官で発見する必要がある、それが企画者の力量だと思うんです。

|

写真が表示されないのよ!

このプログが使っているTypePadというサービスなんですが、バージョンアップしたはいいが、ずいぶんと使い勝手がよろしくなくて、その最たるは、写真が表示されてくれない、ということ。

なので、数週間前から、このブログからは写真付きの更新がなくなっていることに気づいた人もいるのではないでしょうか?

そろそろ、よそのプログサービスに移行しようかとも考えたりしているのだけれど、なぜ写真が表示されないか(ファイル名で表示されるだけなんですよ)、という点についてどなたか詳しい人がいたら教えてくださいません?

よろしくおねがいします。(ぺこり)

|

メニューと料理はちがいます その2

私がライカ系のカメラにはまっているものですから、周囲の知人に、なるだけ自分と同じようなカメラを買わせて仲間に引き入れようとする傾向があります。

しかし、そんなことをここ数年続けてわかって来たことがあります。私の周囲にいる人たちは、カメラ好きは多いけれど、写真好きはほとんどいない、ということ。

「どこそこのメーカーはXXX万画素のフルサイズを出したけれど、ノイズが多いと評判で」とか「どこそこはAPS-CサイズのCCD搭載の新型を予定しているようだ」とか、そういう情報に詳しい人は、さすがゲーム業界だけあって、あちこちにいます。

しかし、「じゃ、いちどお互いの傑作写真を持ち寄って見せ合いませんか」となると、てんで反応が鈍くなる。知人のS氏の写真を見せてもらったことがあるんですが、その膨大なレンズ資産とはかけ離れた、まるで被写体に興味のない写真ばかり。「Sさんはカメラが好きなのであって、写真は別に好きじゃないんだ」ということが素人の僕ですらすぐにわかりました。その時は、なんといっていいやら、すこし複雑な気持ちでした。

*************

自分がカメラが好きであることを「写真がすき」と周囲・本人ともども勘違いしてしまうようなケースってのは、カメラ以外の分野でも意外に多くて、たとえば、

●飲み会好きと酒好き(酒好きは一人で酒を飲む)

とか、

●プログラマーとPCユーザー(プログラマーの多くは ワードやエクセルの活用法などまるで知らない)

とか

●経営コンサルタントと経営者(コンサルタントに本当に経営が出来たら、人のコンサルなどしていない)

とか

●ゲームクリエーターとゲームプログラマー(!)

など、いろいろと混同しがちなケースがあります。

ちなみに、15年くらい前はよく「アッブルの創業者のジョブスは実はプログラマーじゃないんだってさ!! 」と、的外れなことを得意げに語るエセ情報通がいました。ジョブスはアップル操業の時から技術のバイヤーで、日本にはしょっちゅう買い付けに来ていた。で、その最初の技術提供者がウォズニアックというわけ。つまりジョブスは完成型から商品を考える人だから、マックやiPhoneというへんてこな製品がいまあるわけで、もし彼が(天才であっても)プログラマーだったら、いまごろHPでネットワークの技術者を勤めた後退職金もらって老後を生きているのが関の山でしょうね。

技術があればいい製品ができるのか、という質問は、ですから、楽譜の読み書きを学べば名曲が書けるのか? という質問に似てとてもナンセンスな質問だと思う。プログラマーやエンジニアといっても、人間をわかっていなければ、いいカメラなど開発できるわけがないし、CCDから送られてきた信号をどういうチューニングするといちばん優れた発色バランスになるか、なんてのはむしろエンジニアの「感受性」の問題だったりするわけです。つまり優れたエンジニアというのは、人間よりの部分に興味がなければなれない。

```````````````

要するに、写真が好きな人ってのは、表現者であるのに対して、単にデジカメが好きなだけという人は、技術評論家に近い人だったりするわけ。ま、どちらも愛すべき分野ですけどね。このふたつはまったく異なる趣向です。

で、Sさんと写真仲間になってキューバ旅行でもいこう、なんて夢をあきらめた僕は、Sさんを新製品に関する信頼すべき情報源としておつきあいを続けているわけです。

|

メニューと料理はちがいます その1

評論家というタイプの人がいて、そういう人ってのはいろいろな業界動向とか、人筋とかに詳しいものです。

料理に例えると、いろいろな料理のなまえやウンチクを知っている。そういう人は、あたかも何でも知っているかのような話しぶり、つまり「弁が立つ」わけです。

映画業界とか音楽業界とか、ゲーム業界にも、そういう輩がたくさんいます。

料理のメニューを「たくさん知っている」ことが彼らにはとても重要で、この人たちのアイデンティティーは「知っていることそのものにあるのではないか?」とすら思うわけです。多くの表現する側の者たちは、弁で彼らに「まけてしまう」わけです。

こういう人たちを見分ける方法は簡単です。何かを質問すればいい。彼らは何を尋ねても「しらない」といえないのが大きな特徴です。料理を作っている側の人たちは「しらない」といえる人ばかりです。クリエーターは「しらない」といえる力を創作のバネにしてからです。しかし評論家タイプの人は、そうそう「しらない」といえない。いってしまうと自分の価値が下がると思い込んでいるふしがある。だから彼らがこの四文字を口にする時は、かなりの覚悟をきめた時だけで、っまりその点でこの二者はまったく反対にいる人たちなのです。

でも、こういう評論家系の人たちのが知ってることは、当然ながら、人づてとか新聞とか本とか噂とかネットとか、から仕入れたもので、実際にその目で確かめたことがあるかというと、そうではない。表現者たちがするようにいちいち自分で体験していたら、やけに時間がかかってしょうがないわけで、嫌が上でも「受け売り」的な情報に頼っているところがある。情報通というのは得てしてそういうものです。

***********
映画のウラ話やあらすじといった業界的な情報を知るのと、実際に映画作品を見て感動する「なにか」を得ることは、似てまったく非なるものです。
映画のあらすじを読んで展開やオチを知るのは1分でできますが、映画を見るには2時間かかる。いや、その作品に「感動」できる自分になるには年単位の時間がかかることも多々ある。

業界の人というのは忙しいものですから、どうしても前者でてっとり早くすませてしまう癖がある。一般人が知らない裏事情を知ってるほうが偉くなった気になるものです。そのぶん自分の業界知識のほうが価値が上と信じているから、一般人が感動している様を上から見下ろして、「あ、そのパターンね」とか「へぇ、そう持ってくか」と、事前情報だけでパターンに簡単に当てはめてしまう。

その一方で、一般人はちゃんと2時間かけて映画を見る。そして感動する。そしてその作品の価値を体の芯でとらえる。その姿を見て業界人はこう言うわけです。「素人は感動できていいな」と。

***********

素人視点にたって、「どこが感動した?」と聞くと、情報通の人たちはすらすらと答えるわけです。どこかで聞いたことのあるような業界用語を羅列してね。一般の人たちはそういう「弁が立つ」という技術をもっていないから、ださく見えます。しかし大衆というのは聡明です。弁が立たなくても、実生活にその感動をしっかり生かしていますし、よい作品をヒットせるのも大衆です。

これはたとえ話ですが、以上のような業界人は、料理に例えると、実際に料理をたべずに、メニューとか素材リストだけみて手早く判断していまう人たちで、一般人が受けた「感動」をスキップしてしまっているわけ。おのずと栄養失調になっているわけで、それに自分も周囲も気づかないまま彼らの評論活動は業界の中心でつづけられているわけです。

この「感動」という二文字が、「圧縮しては伝達不可能である」だ、というのが今回の僕のテーマです。

************

1分かけてあらすじがわかるものを、なぜわざわ2時間かけてまで見る必要があるのか、という疑問は、多くの業界プロたちの頭痛の種であり続けていますが、その答えをいいかえるとこうなります。「なぜ映画製作者たちは、1 分で伝えることのできるストーリーを、わざわざ2時間モノの映画に置き換えようとするのか?」と。この二者の違いに、「クリエィティプ」という技の所在の違いがあるわけです。

この違いは、「感情移入のための演出」とか「説得性をもたせる工夫」とか「共感のための手続き」とかいわれていますけど、要するに、こういう体験共有のためのプロセスをすべて踏んでもらわないと感動は伝えることができない、という答えにぶつかるし、ぶつからないのであれば、世の中の物語はすべて「あらすじ」で代用可能となってしまう。

********

映画に例えるとわかりやすかったかもしれませんが、実際の生活はこういう「代用」で溢れています。しかも、メニューがわかっても、料理の味はじつはなにもわからないという事実を、私たちはかなり見落としているものです。一流シェフが用意するメニュー情報はメールで送信して伝達することができますが、味はまったく伝達不能です。あるいは、自分の婚約者の特徴を実家の親に言葉で伝えることはできますが、果たしてその美貌までは伝えることができない。「実にうつくしい」という記述表現で、その人が持つ「美」そのものはなにも表現できていない。つまり、「ことば」と「実態」は背反関係、いや補完関係にあるといったほうがいいのかな、それはまるで合わせ鏡のように、川の対岸にある反対の存在だということを、日々感じるんですね。

活動再開したサザンのコンサートの曲目を聞いて、彼らの新しいライブをみた気になってしまうような人。てはいけないのですよね。情報というのは、ラベルであって、現物そのものではないのだから。

********

だから、僕は、情報メディアの発達とともに時代がどんなにコンビニエントに変化したとしても、「感銘」をつくる仕事はなくならない、と思っています。感動を圧縮して情報化することは不可能だからです。その点で「感動」と「情報(~記号性)」は背反するものだと思っているからです。

*******

業界内にいる、たくさんの評論家風の輩が、だからどれだけ会議や講演会で知ったかぶりの風を吹かせたとしても、いざ彼らは「感動」を自分でつくることはできないわけで、その関係性は、「アーチスト」と「芸能レポーター」くらいに違うと思っています。たったひとつ、彼らが「アーチスト」と「芸能レポーター」のたとえよりやっかいなことがあるとすれば、・・それは、彼ら本人すらも、自分がどちらかわかっていない、という点をです・・・。

|

へこんでなんぼでしょ

ここ数日、いろいろと精神的なナパーム弾を受け止めてしまい、へこんでます。
昨日は、なんともいえない感情の不安定なゆらぎをしらふのまま持ち帰り、自宅で自分と向かい合いながら一晩をしのぎました。今日は、それとはまったくの別件で、やはり自分のプライドがぽきりと折れた音がきこえた。

ま、こういう時は、深夜、自室で仕事にうちこんで、翌晩もうちこんで、その翌晩もそれでまたうちこむしかない。それしか、回復する方法はないんだな。

こういう時には、「もう誰かのために何かなんてしてやるものか。ばかばかしい」と思うのだけれど、でもそれを助けてくれるのは別の「誰か」だったりするわけで、そのたいていは、毎日懸命に努力してくれている4階(開発スタッフのいるところ)のスタッフたちです。

生きている実感ってさ、自分が必要とされている実感なんですよ。それを仕事は感じさせてくれる。仕事中毒の人ってさ、恋愛中毒の人とおなじで、必要とされている実感をあじわっていたいということなんだと思うのです。それだけに、(仕事でも恋愛でも定年退職でも)自分が必要ない、といわれた時の挫折感は、ストレート直球の「必要とされる実感」でしか補えないんだよね。

4階のみんな、がんばろうね。
人生、何歳になっても、へこたれでなんぼ、へこんでなんぼ、でしょ。

P.S

飯田和敏さん、みんなへこたれながら生きてんだからさ、あなたも図太くがんばってくれ。

|

iPadにすこしがっかりしたのですけど・・

タイトルどおり、ま、要するにiPadにはすこしがっかりです。乱暴な言い方をすると、iPhoneのサイズがかわった、という話と理解しているもので。でもこういう書き方だと、すごく「モノフェチをきどった嫌なヤツ」に思われるでしょうね。なもんですから、すこし、その結論に至るまでの細かな経緯を書きました。

*************
サイズが変わる、と一言でいっても、技術的な観点でいえば、気の遠くなるようなハードルを越えないとならないわけです。ですから、それなりの決断プロセスを経て、そしてそれなりの理由があって、アッブルはその未来をこの「大きなiPhone」という新機種にかけたのでしょう。

CESなどここ数週間の各社の発表をみていてひとつだけわかること、それは「電子出版の大きな波が来ている」ということ。書籍がCDと同じような案名をたどることになるのかな・・なんて感じている出版業界の人も最近は多いようですし。この世からなくなりゃしないけど、きびしい時代になるんだろうな、などとね。

Amazonのキンドル用タイトルのアマゾンのマージン率が70%と聞いたけど、これじゃ出版社がそうそうカンタンに電子出版に移行できるわけもなく、しかし一方ででも著者からすると、原稿データがあればそれまでの三倍の30%という印税で「自費出版」が可能になるわけで、要するに「仲介業者が不要になってきている」という現象はますます加速している。その「仲介業者」のパートを、いま各社は奪い合っていると理解すると、いまの勢力図はおもしろい。彼らがこれから狙っているのは「流通業」をするための準備です。ハードを売って、ソフトを売る、のではなく、「直販ビジネスの会員獲得のための購入機器をつくっている」とみることができます。
*******
実は、なんどかこのブログで書こうとしていたことなのですが、タブレットモデルは結局は今回のようなものになるのではないか、と思ってました。その理由は、マックをタブレット用にバージョンアッブしてゆくコスト負担(=ユーザーが負担する負担=価格)を考えると、けっこうな額になることが予想されるわけです。いま最も薄いAirMacに、同サイズで高性能の液晶タッチセンサーと、手文字認識など各種認識ソフトの類の整備、各サードパーティーへのアプリ対応、ハード麺ではそれらに伴うメリー増強とCPU速度の向上、など必要な手間をすべてコストとして入れてゆくと、価格はおそらく25万円を軽く越えてしまう。MacOSという広範囲なシステムに手を入れる膨大な負担がかかるわりには、たいした革新性がアピールできないものになります。Windowsのタブレットエディション(僕はNECのVersaProをすごく愛用していましたが)程度のインパクトでおわってしまう可能性がある、というものになります。つまり「うすく、軽くなったけど、何に使うのかははっきりしない」という製品。キンドルが出て来てオンライン出版の波が来ている中、アップルは、この程度のものでは対抗勢力にはなれない、となる。
````````
それでも、僕はただのユーザーですから、新マックのタブレット版が欲しかったわけでして、「かっかり」してしまったわけです。そして今回の発表でわかった こと、それは、「僕などが欲しいと思っているものを作っているほどアップルをとりまくビジネス勢力図はノスタルジックではない」ということ。


整理すると、アップルがもしMacをタプレット化したとしても、それは製品が一ライン増えるだけの話に留まってしまうわけで、かといって僕たちいちぶのファンが期待するようなMacとiPhone/iPodラインの間をうめる新製品をいまつくるとなると、当然あたらしいOSというこになりますから、そんなことに資源を費やしていたのではこれではその間にキンドルをはじめ他社製品に水をあけらけてしまう。回収のめどなど立つころには時代は変わっている、その答えが今回のiPad、と見てます。もっと具体的にいうと、「おまえらの欲しがるようなマニアックな製品をつくっているヒマはねぇんだよ」という、つよい口調のメッセージが今回のiPad。

アッブルがOUT of BOX(ユーザーがマックを購入し使用しはじめてからの課金モデル)を強く模索し始めたのは1999年くらいではないでしょうか。当時のアップルジャパンの社長が、「本社からこういう方向性が来ているのだが、ゲームで課金する方法はないかな」と相談されたので強く記憶しています。それ以来まっすぐに突き進んで来たiTunesのモデルが他社に奪われてしまうことは、「ビジネスモデル」で勝負してきたアップルがハードメーカーに戻ってしまう危険がある、ということでしょう。この時期、激戦区に身を置くアップルが新モデルをリリースするということは、弱点をつくることにほかならないわけで、そんなことよりもより覇権を強固にする「課金マシーン」としての新機種を出すことしかないわけで、おのずと、こういう結果になるだろうとなるわけ。
`
キンドル系の対抗馬とししてのタブレットとは別に、マックのシリーズとしてのタブレットは、市場へのインパクトが小さいけれど、ニーズはあると思っています。しかし、ジョブスという人は、似たようなもの(タブレットマシン)を複数のライン上に置くような中途半端な真似はしないでしょう。タブレットという操作法(=文法)をユーザーやベンダーに教育するコストは膨大です。日本のメーカーであればぜったいにあると思われるタブレットMacは、以上のような経緯から、これからもない、と思います。それがわかったから、「がっかり」なのです。つまり僕たちが求めるタブレットは、iPadがそこに到達するまで待たなければならない、という点で。

|

RHAPSODY NAKED by RC Succsession

「発想の転換」なんてのは、ことば遊びみたいなものだと思っています。これはどういうことかというと、僕らの印象とか発想なんてのは、要するに「ことば」に縛られすぎているってこと。これはその証だと思います。
最近購入したRCの「ラブソディー"NAKED"」なるライブ盤を聞いて、そして興味深いライナーノーツを読んでてそう思ったという話。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1980年代、ま、いわばレコードの全盛期みたいなもんですけど、アーチストが新作をライブ盤で発表するのはタブー視されていたわけ。ライブ盤ってのは音質や演奏品質が低く、ま、ひとつのファンサービスの企画モノ。正式な新曲をリリースするならスタジオレコーディング盤でなきゃ、というのは誰しもが同感していた。
当時、ライブでは爆発的なエネルギーを持つ新生RCサクセション。ブレイク寸前の予感は誰しも感じているものの、スタジオレコーディングしてもどうもいまひとつ。ライブ盤で出してはどうか?という話の前に、かならず、この「ライブ盤では新作は売れない」ということばが立ちはだかったという。

で、メンバー一同議論の挙げ句、「会場をスタジオに見立ててレコーディングしよう」ということになったというはなしです。観客を同席させた公開レコーディング・・。当時のディレクターが書いた名ライナーノーツを読んでて、すごいことを言い出したんだなと思った。だからジャケットにはライブという文字は一言も書かれずに発売されたそうな。たしかに、初めて聞いた時に「あれ?ライブ?」と思ったことを鮮明に思い出した。
ちなみに虎ノ門にあった久保講堂という小箱がその会場に選ばれたのは「急遽やることになった」からなそうな。笑 勢いがある時は、こういう「ありえない決断」をしてしまう力があって、やけにかっこいい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみにこのライナーノーツは、CDジャケサイズでわずか5ページのものだけど、"鳥肌が立つほど"、それはまるで、えん罪の再審裁判で明かされる真証言ほど、の衝撃がある。ちょっとおおげさだけど。

ですので、かつて高校生の時に、童貞のの僕が胸を振るわせたRCの名盤「ラプソディー」は、実はライブ盤ではなかったわけで、その証拠に、コーラスやらボーカルやら演奏の一部は、録り直されていた、という事実もそこに書かれていた・・。

~~~~~~~~~~~
そしてこの「ラプソディーNaked」は、当時の音源をそのまま、編集なしでリリースされた2枚組というわけ。1980年といえば、いまからちょうど30年前。終戦から数えて大阪万博の年が25年だから、30年といえばそれよりさらに長い・・ずいぶんとオレも生きてんだな・・。

このCDをかけながら、妻と調布や小金井方面へドライブにいったのであります。(RCといえば甲州街道ですからね) でもこれはドライブというよりタイムマシンに乗りにいった感覚とでもいいましょうか。
もう何百回も聞いた「ラブソディー」が、オープニングMCから曲順、音質にいたるまで、そして金子マリがゲスト出演していたという事実まで、オレが30年間知っているものとはぜんぜん違うライブじゃんか!!

|

好きな食べ物は?

アンケートなどで、「いちばん好きな食べ物は?」と聞かれても、いつもこたえに戸惑う自分がいます。
いちばんすきって、どういう意味だろう?
毎日のように食べているもの?
それとも、滅多に口にすることができない高価なもの?

*******
深夜に自宅で仕事をしていて、ジャンクフードがとてつもなく食べたくなることがあって、それは吉野家の牛丼だったり、サイゼリアのリブステーキ/ディアボラ風(←これ裏メニュー)だったり、インスタントのサッポロ一番塩らーめんだったり、桂花ラーメンの太肉麺だったり、金額にしたら、どれもたいしたもんじゃない。しかもそうしょっちゅう口にしたいと思わないものばかりですけど、どういうわけかそういうものほど突発的にたべたくなる。要するに禁断症状みたいなもんで、海外駐在員の人にいわせると、かなり強烈な中毒的衝動として体をよぎるそうです。某海外駐在員にいたっては桂花の太肉麺を「10万円だしてもいいからたべたい」と生唾を飲んで豪語してました。

桂花ラーメンの太肉麺は、高校生からですので、かれこれ30年以上、月一くらいの間隔禁断症状がおきる。渋谷センター街で950円で食べられるただのラーメンですが、国際線ファーストクラスの食事よりも10倍美味いと思ってます。

会食やら接待やら出張やらで、年齢とともに国内外の有名店を知り、いわゆる高級なモノを口にする機会をたくさん経験したのだけれど、最近思うことは、「食べ物の美味さと値段は比例しない」ということ。キャビアとかフォアグラみたいなピンの高級食材はすこし別格ですけれどね。それらを組み合わせた料理ってのは魔法のようなものだと思う。
*************
こんなことばかり書くと、子ども時代からハンバーグとカレーライスを愛してやまない味音痴みたいに思われるのかもしれないけれど、じゃ、地球が滅亡前日の食事には、ふぐコース料理とカレーのどちらをとる、と聞かれたら、まちがえなく(築地場内の「豊ちゃん」の)かつカレーをとる、というでしょうね。これも950円ですけど。

食べ物の好みというのは、体調とかその日の気分によって変わるものですけど、不思議なくらい、値段にまったく比例しない、というのがおもしろいところです。高い金出せば、毎日美味いものが確約される、というのが真だとしたら、ほんとに世の中はつまらなくなってしまいますが、実際の世の中はまるでそうでないからおもしろい、と思うんです。








|

飯田和敏氏へ(私信)

ネットで見かけたんですけど、飯田和敏さん、去年、大学で講師やってたんですか?
その授業聞きたかったなぁ。専門学校では中途半端な講師がゲームの授業やってること多いらしいからね。ゲーム論って難しいですよ、はっきりいって。できる人材はなかなかいないと思います。
あいかわらずNine Inch Nailsのシャツ着て授業やってたんですか?

ネットの情報で拝見する限り「授業中に学生が寝てた」ことにブチ切れて授業を打ち切ったとありますが、これは本当なんですか? 笑  授業をボイコットと いう文字が使われている記述もありましたけど、類推するに、いわゆる「ボイコット」とはちょっと意味あいが違うみたいにも思えますが、真実のほどはどうい うところなんですか?

公私ともにいろいろと破天荒なことが起きるのが飯田氏の人生の特徴で、ご本人からそういう話を直接聞くのがボクのこの上ない楽しみでした。僕がめげてた時に、ずいぶんとなぐさめてもらったこともあります。そういうところが彼のこの上ない魅力なんですけれど、残念なことに、ここ数年会ってません。


携帯に電話したら「この番号は現在つかわれておりません」となったし、どうせメアドも使われてないだろうし連絡のとりようがありませんよー、飯田さん!!

飯田氏は、とても心やしさい人で、離婚する時も、幼い息子さんのことをずいぶんと心配していましたね。ふたりで最後の旅行する、という時に、JALの優待割引券(!)をカンパしたっけな。
ふだんは無口で、自己表現が下手で、シャイで、そしてこの上なく苦労を背負い込む星の下に生まれた人、それが飯田和敏という人物です。たぶん。 「授業中に生徒が寝ていた」ということくらいで飯田氏がブチキレたっていうのが本当だとしたら、だからとても笑えますね。ガンコおじさんになったということでしょうかね。あるいは、その生徒さんと一悶着あったということかな? いや、いずれにしても、この話、おかしいですね(淀川長治調)。

飯田サン、とにもかくにも一本電話ください。僕の電話番号は、かわってません。オフィスは引っ越しましたけど。

で、最近の近況と、そして本件の顛末を、ぜひ、対談などで聞かせてください。

斎藤より




*****

|

いまいち好きになれないコンビ漫才の理由

出かけずにテレビ番組はずっとお笑い番組ばかりを見ていた今年の正月休み、娘が芸人情報にくわしいおかげで、いろいろな意味で楽しめました。

「笑える理由」って何だろう?と考えた人は多いと思いますが、ボクもそこがまだよくわらない。論理的に解明できた人なんてこの世にいない分野だと思いますけれど、わからないなりに、年末年始のお笑い番組を「所属事務所の傾向」として俯瞰するのがおもしろかったという話。

で、面白い芸人の共通点はなにか、となりますが、セリフそのものが面白いかとなると、実はそうでもないことに気付く。
前回の「間」の話と関係が多少あるんですが、おもろい芸人さんは、そのあとの「どうする?」という「間」のあと、のもっていきかたがすごく巧(うま)い。
そもそも笑いの根底にあるものって、「あるある」みたいな「共感」ないしは「え?そっちいくかよ!?」みたいなその裏返しではないかと個人的に思うわけです。で、この「間」の長さの取り方で、観客の意識の代弁や、逆に意表をつくようなひっくりかえしが表現されてると思うのです。

ダウンタウンの松っちゃんのように、自らが落としどころのないヤバい墓穴をつくって、間でそれを表現するという、実に高度でギリギリの事を仕掛けてくる芸人 もいる。(どちらかというと通ウケ気味な、この独特のギリギリ感を集めたのが「してはいけない24時間シリーズ」のリアクションで、逆にそれらを排除したのが「す べらない話」だと思ってみてます。最近すべることも多々あるみたいですけど。)
正月番組をみていると、吉本系の人は、そのあたりがけっこう徹底されている印象があるのだけれど、一般的なタレント系事務所の芸人たちはどうもバラツキが大きい。

正月に出演している人気芸人の中でたった一組、どうしても面白さがわからないコンビがいるとしたら、それはナイツというコンビ。
ひ とりがひたすらボケて、もうひとりはそれを拾っては突っ込むんだけど、突っ込みに耳を貸さず、我が道を行くといわんばかりにひたすらマシンガンのようにボ ケを連発する、というタイプの漫才。リアクションもないから「ああ、なるほどね、ははは」とオチない。「なんでこの人ボケ続けてるんだろ?」という疑問だ けがのこる・・。

::::::::::::::
むかし、会社の運営で悩んでいた時、先輩社長からこう指摘されたことがあります。
「斎藤君さ、(社員から会社の運営に関して質問された時に)、君は即座に答え過ぎだ」と。「たしかに論理的で、かつ要領を得ているのかもしれないが、話し方がプロっぽ過ぎて説得力がまるでないよ。すこしは社員と一緒に考えるフリをしなさい」と。
「ああいえば即座に答える」型で答えていたのでは、「情報」は得られても「共感」がえられない、ということと理解しています。10年以上前の事ですけど、いまだに頭から離れない一言です。

さて漫才の話に戻りますと、笑いのネタは誰にもひとつやふたつ経験がありそうな失敗談。
突っ 込みによってボケてる意味が観客にわかるまでのぎりぎりの時間が「間」だとすれば、その取り方が「共感」のための時間なんだと思うんだな。ボケてる側の方 が人気が出る理由も、この「共感」だと思います。ネタセリフの連発だけで、突っ込まれてもまるでうろたえることのないボケ役は、まるで人間性とかが伝わっ てこない、だだの「変な人」となってしまう。ナイツの漫才を見てて、ボケ役の人(はなわの弟さん)は、「きっと頭がいいんだろうな」とは思うけど、実はど んな人柄なのか、ぜんぜんわからない。結果、わらえないし、興味がわかない、そういうことなんだろうと思います。

ま、これは私見でして、もっとちがった楽しみ方が多々あるんでしょうけども。

|

会話の「間(ま)」にかけるコスト

Skypeが普及したおかげで、国際電話をする人が激減した昨今、久々に長い国際電話をしました。

某国某メーカーの人らしいんですが、会った事もない初めて話す相手。もらってたメールの意味が不明で、これではらちがあかないから電話したのだけど、通話がはじまって30分をすぎたあたりから、「しまった」と思いはじめた。1時間を過ぎたあたりには相手の用件でバカ高い国際電話をしている自分が愚かにすら思えて来た。相手の意図がおおかた確認できたのでよかったという点ではよかったんだろうけどね。

ま、開発前の製品に関しては奥歯にモノのはさまった言い方しかできないわけですが、それにしても、「なんでメールでは相手の意図が確認できず、電話だとそれができたんだろう?」なんていう、ま、どうでもいいようなことを電話を切ってからしばらく考えたわけ。

で、電話で話してはじめて、その会話の「間合い」から本件が、この「奥歯にモノのはさまった言い方である」ことがわかったという話なわけです。「こっちのことははっきりいえないけど、あんたのことはいろいろと教えてほしいんだよ」という、実に不可解な質問をしている、という事実がね。

************
無音状態だと録音が停止するレコーダーってのがあります。音に反応し録音を即座に再開する。
この手のレコーダーでの録音は、ですからセリフが数珠つなぎのようにつながっている。これが、画像圧縮や音声圧縮の基本原理でもあります。

さてこういうレコーダーで録音したものは、再生しても、いまひとつニュアンスがつかめない。質問に対して即答する「わかった」と、10秒間あけてから返事する「わかった」では、その意味がまるでちがうわけですからね。
人間は、この<空白>の意味を意味に変換する高度な頭脳を誰でも持っています。

警察無線のような半二重(両者が同時に話せない通話をこういいます)の音声通信は、「了解しました。どうぞ」(間) 「よろしくおねがいします」(間)といったように、この(間)が日常会話とは異なる不自然さを発生させます。どこまで理解してくれているのか、よくわからない。人間同士の会話で「間」というのは想像以上に大事です。


国際電話の話にもどりますが、話者が話をしていようが、黙っていようが、電話というのは回線を占有するわけで、だから料金がバカ高い。相手の吐息とか間、回答に悩んでいる時間、といった「情報でない情報」を割愛しないためのコストが、「国際電話」の価格とチャット系の違い、ということみたいです。

その点で、このうざくて長い国際電話は、もしかしたらかけた甲斐があったのかもしれない、という話です。

|

来年移転します

来年そうそうに、ビバリウムは西麻布へ移転します。
今年のクリスマスカードは、現住所のままお送りしましたけど、来年早々に住所変更のご連絡をお出しすることになると思います。
今回は、借金して老舗の料亭の建物をそのまま買い取りまして、値段は10億円程度でしたけど(←大ウソ そんな大金どこにあるんじゃい!!)、いませっせとTさんが内装をやってくれています。これいわゆる「自社ビル」ってことになるんですかね? 実のところそんなたいそうなものじゃないんですけどね。エレベーター付きの一戸建といったほうがいいんじゃないでしょうか。ま、家賃がかからなくなりますから、この不景気をサバイバルするにはそれもいいのではないか、ということになりました。

この料亭のビル、実におもしろい構造をしていまして、中でも厨房空間がやけにでかい。タイルとステンレスと排水加工の床で囲われたこの空間をどうしたものか?と考えていたのがこの秋のことなのですけれど、「実験室にしよう」ということになりました。こわすという案もあったのですが、よくよく考えるともったいない。
普通のオフィスビルって、床に水を流したり、火を使うことができません。ですが、この空間はできる構造になっている。だったら、「実験室しかないだろ?」と内装デザインのT氏にいうと「まじすか?」という返事。「まじす」と答えると「なるほど・・・(15秒の無言)、たしかに、それは大ありですね」となりまして。

Tさんはシーマン2のパッケージ系のデザインをお願いしたデザイナーでもありますが、最近はあちこちのいけてるレストランやカフェを手がける工務店(?)でもある。そのデザインの遊び心が、普通の工務店とはちがって、なかなかよいのです。

ガスも水道もがきているし、高価そうな流し台もあるし、床には排水設備まである。写真の現像やら、ジェットエンジンの点火テストやら、オブジェの制作やら、料理やら、自宅ではできないいろいろな実験をするのに、この「厨房空間」ってのは、実に好都合でして、この新オフィスのひとつの目玉なのであります。

それ以外にも、いろいろとユニークな工夫が凝らされた空間が、ぼちぼち完成しつつあるのですが、これが実に楽しみなのであります。

頭痛の種だったのが、「窓がない」ということ。そのおかげで、このビル内はとにかく暗かった。老舗の料亭にはその方がいいんでしょうが、でも今回はオフィスですからね。で、一階二階三階の壁をぜんぶ、窓のためにぶち抜きまして、そのおかげでずいぶんと明るくなりました。やっぱ、仕事場は、風、と、光がはいってこないといけません。

さて、表記上この建物に「屋号(ビル名)」なるものをつける必要が出てきまして、考えてんですけど、何がいいんだろう? ビバリウムのビルだから「ビバリービルズ」ってのはどう? と思ってんですけど、周囲の反応はいま三です。コテコテですからね。綴りもぜんぜん違いますしね。ビルの屋号をウケだけできめるな、といわれました。

********

ここのところ、セリフ原稿の仕上げ作業をひとりでやっています。なんだかたくさんのマンパワーをかけてきたのに、最後は結局一人か・・。一人になってしまったので、泣きながらやってます。季節がら、徹夜がなかなかこたえるのです。1mgにしたせいで、タバコの量も増えそのせいでからだもだるい。社長ってのは、仕事しても誰もほめてくれないからつまんないのです。

そんなこんなで、こちらのブログの更新も滞り気味ではありますが、そのうちにこのビバリービルズ(暫定名)の「テーマパーク」風内観は、写真入りで紹介しますのでお楽しみに。

P.S
新タイトルに関するお問い合わせですけど、これがおこたえできないんだな。契約しばりの関係で。
ご推測いただくしか、ない。ごめんなさい。がんばってるよ、すごく。

|

僕といつも一緒にいる人

忘年会、クリスマスパーティーなどのシーズンです。
こういう時期は、ふだん会わない、いろいろな人と会うわけです。
で、帰宅して自分の部屋に戻ると、とつぜん一人になる。
この「一人」というのは、僕なわけですけど、この「さいとう」という人と僕は何十年間にもわたり寝食をともにきた。このだんごっ鼻も、特徴の太めのまゆげとも、何十年間をともにして来た。あまり好きではないこの肉体に、いつのまにかシンパシーをもっています。この「さいとう」という肉体にいちばんメリットが多くなるように日々の選択肢を生きている。この話のキモは「この肉体に」というのがミソで、カネも、美味い食事も、快適な睡眠も、居心地のいいグリーン車も・・ぜんぶ、「この肉体」を基準にしているところがある。

***********
最近の携帯電話は、SIMMカードを入れ替えると、いきなり他人の電話になってしまう。形もデザインもそれまで僕が所有していたものと同じですが、他人の電話番号を持ち、そのアドレス宛のメールをダウンロードしはじめる。愛用していた電話機が、いきなり他人のために働き始める姿をみていると、なぜだが嫉妬にも似た、切ない気持ちになってくる。そんな経験ないですか? 愛用していた何かを手放した時とか。
きっとこれって、長年つれそった妻や恋人が他人のものになった姿を見た時の気持ち、かもしれません。

*********
整形手術をして自分の顔がすこし変わったくらいでは、このシンパシーは揺らがないのでしょうが、からっきし違う肉体になったらどうなんだろうか? たとえば僕がある日、北川景子(の肉体)に移り住んでしまったとしたら・・。
肉体が違うから、タバコも焼酎といった刺激物は美味しく感じないかもしれない。そのうちきれいなワンピースを着てみたいと思うだろうし、チヤホヤされるうちにいつしか、若いイケメン男に恋するのかもしれない・。それって「女」そのものではないか・・。

むかしから人は「内面を磨け」とはいうけれど、実は内面ってのは実は外からつくられるのではないだろううか? オオカミ少年みたいに、ジャングルでたった一人で生活していたら、見栄もなければみかけも関係ないわけで、欲しいものもずいぶんと違うものになってくるんでしょうからね。


*********
携帯電話のSIMMカードみたいに、エッセンスだけを残して知人の肉体と入れ替わってしまうことが可能となったら、そもそも肉体なんてものは、携帯電話機の筐体くらいの価値しかもたないのかもしれませんね。人間社会は人間の肉体にいちばんの重きをおくように作られて来たけれど、そんな法律はすべて意味をなさなくなるでしょうし。

そんなことを最近考えてしまうのは、おそらくこれは肉体的な老化現象のひとつではないかと思うのですが、それはひとえに「いつしかこの肉体を脱ぎ捨てる日が来る」という予感から来ているのだと思います。
で、その晩、気がついたらその知人の肉体で時間を過ごしていて、次のパーティーでかつての自分の肉体をみたとき、「こんなに太らせやがって」と、人に貸した自分の車を見る時のように、かなり客観的に感じるんでしょうかね。

僕が、いやあなたがいま欲しいとおもっているもの、それは車であったり、家や不動産、服や時計であったりですけど・・・それらすべて、こういう「肉体交換」という欲望の疑似実現ではないでしょうかね。人間というのはそうやって、外部から固めて、自分というものをつくっているんではないでしょうかね? 

|

命ある肉体に刃物をいれる


娘が高校の生物の授業で、「解剖」をすることになったそうですが、肝心の「動物」を納入している業者にいわせると、今年はカエルの冬眠が早いそうな。なので、カエルが実験に必要な数集まらず、その結果、解剖の授業は急遽「ハツカネズミの解剖」となったそうな。

娘の報告によると、白いハツカネズミというのは、目はうさぎのように赤い。ところが解剖が進むにつれて、眠ったままネズミは死んでゆく。それにつれて、この赤く透き通った目が、だんだんと白濁してゆくんだそうです。
最近の多くの子どもたちは「ハムスター」を飼った経験が多いことも手伝ってか(うちの娘もその一人ですが)、生徒たちは「泣きながら」の解剖授業となったという話。

この手の話は、細かく書くと「残酷だな」とか「かわいそう」とか「きもちわるい」ということになる話ですけど、敢えてその先まで書くと、解剖の最後には、ネズミの頭蓋骨だけをとりだし、それを硝酸にいれる。硝酸によって頭蓋骨が解けると脳を傷つけることなく取り出す事ができるんだそうで、それを標本にして考察するそうです。女子高生の授業にしてはかなりリアルで、かつ手を汚す体験です。

*******
僕の同級生は医者になった者も少なくないのですが、彼らにいわせると、手術メスを握って死体の解剖実習している初期の医学生の時期は、食欲がめっきりなくなるそうです。中でもとりわけ「スパゲティー」が食べられなくなるらしい。が、いつしかそれにも慣れ、そうこうしているうちに、いっぱしの医者になると、スパゲッティーを見ても何も感じなくなる。感覚が麻痺する、と一般人がいうのはたやすいけれど、僕たちがもっているものをひとつ犠牲にして仕事をしているという点で、これはすごくありがたいことなんだろうな。

僕の兄は、医者ではなく歯科医ですが、口腔外科ですので、頭蓋骨に囲まれた独特の部位を手術するのが仕事。僕自身、歯の根が腐った時、この兄に処置されたことがあるんですが、歯ぐきをひっぺがし、頭蓋骨と顎の間の部分を開くので、のみととんかち(のようなもの)でがんがんとやられたわけ。このときの恐怖はいまだに夢に出てくるほどですけど、自分自身のことですから、記憶に幸か不幸か映像がまるでない。しかし医者である兄は、自分の弟が血を噴き出させて「うわー」と叫ぶ中、そ口腔部の頭蓋骨を開くわけですから、まっとうな神経でやっていたら手術にならない。ま、図太さがないとやってられない仕事なわけです。

*********
はなしは突然かわるけれど、「すいざんまい」で寿司をたべていると、時々ちりんちりんという鐘の音がして、「みなさぁん、いまから、石鯛をさばきまぁす」というかけごえとともに、水槽からいきのいいのを取り出してさばくイベントがある。
カウンター席でその様をみていると、こういう「解剖」とか「手術」と似たようなシーンが繰り広げられるわけ。ピンピンと飛び跳ねる石鯛の頭を、まな板の上に押さえつけ、頭をハンマーで一発どかんと叩く。失神している鯛の後頭部の局所に板さんはすかさず細身の包丁をずはりといれ、血抜きをする。まったく動かなくなったかに見えるまな板の上の鯛は、しっぽだけが条件反射でときどきぴくり、とする。あっけに取られている客を尻目に、あれよあれよという間に形ある生命がたんなる肉体だけになり、その直後は切り身と骨だけになる。そのまま皿に乗せられ、そのひとつを箸で口に運ぶことを待っている人間たちがカウンターに並んでいる・・。

*********

医者は「生かす」という大義が、そして板さんは「食する」という大義が、それぞれあって生命ある肉体に刃物をいれます。その間にいる僕らはというと、何も考えずに、日々をのうのうと生きている。で、「うわー残酷だぁ」とかいいながら、ビールを片手にそれらを食ってる。こういう僕らがいちばん命を知らない人種なんでしょうね。医者も、板さんも(それ以外の食材を手がける人も)、ぼくらのようなただの人間を生かすために、自分の手を汚し、命を向き合っているわけで・・・。

解剖実験を通じて、17歳の娘がそういう人たちに、そして動物たちに対して感謝の念をもってくれればいい、と口にするのは簡単ですけれどね。親である僕たち自身だって、そういうことの本当の意味をからきし理解できていないんでしょうね。人間社会は役割分担でできてますから。それこそが、なまぬるい「平和ぼけ」ってやつなんでしょうね、たぶん。

|

CDショップが見当たらなかった週末

柳沢慎吾の新作CDが欲しくて、都内のあちこちの大手CDショップに電話したけど、どこにもない。ま、今はやりの、というわけではないですからね・・。Amazonだと数日かかる、との表示。ならば、と車で都内あちこちを走ってショップをしらみつぶしにまわろう、ということになり、妻とまわったのですが・・・CDショップ(レコード屋というのは古い?)、本当にすくなくなりました!!あらためて痛感なのです。昔は商店街にひとつかふたつところどころにありましたよね。・・。いまはTSUTAYAが、でんと鎮座している風景しかみあたらないのでありまして・・・。
「いっそ、iTune Storeを検索したほうが早いんじゃ」という声もあるのですが、なにせこの商品、付属のDVDが目玉なもんで・・。
********
柳沢慎吾のCDってなんだ?という話ですれど、これ、ちまたでいまちょっと話題の「効果音まで完全一人芝居もの」でして、先週12/2に発売されたのは氏の真骨頂の「刑事モノ」なのであります。まだ手に入れていないのでこまかいところまではわからないが、要するに動機としては「カーステ搭載しておきたいCDナンバー1」といったところでしょうかね。

運転中に「爆笑したい」のであります、最近。