「僕の家のげた箱に下駄は一足もないし、筆箱に筆など入っていない。風呂はあるけど、そこに呂などというものは見当たらない」といったことを「ハンバーガーを待つ三分間の時間」の中で書いたのだけど、それは、あたらしい技術は古くて見慣れた姿を借りて日常に入ってくる、という話。 今回はその先のさびしさの話をかこう、つまり言葉としてははのこっていても、そのイキさがすっかりなくなってしまったもの、という話。 「花の印税生活」というフレーズがある。 ということで、古い本にはこうして丁寧にはんこが押されている。
でも、最近は、「著者の検印を廃止しています」という表記だけで(いや、それすら書かれていなくなって)、さびしい限りである。 copyrightという英語は著作権という意味だが、なぜか言葉は「コピーの権利」と書く。つまり著作権は、複製行為と表裏一体の関係である。 だったら、その承認は、ぜひ自分の手で、しかも捺印でやりたいですね。自分の著書を愛でるようにね。ちゃぶ台の上のノートに正の字でも貴重しながらね。でへへ。これが花の印税生活の真実となると、その対価はやはり「手数料」ではなく、「印税」であるべきだ。 しかし、いまは検印なんて廃止、印税は銀行振り込み、部数は出版社の自己申告。 「印税」、ああ、このロマンティックな作業はどこへ消えてしまったのだろうか? サラリーの語源が塩という話は有名である。 今の「サラリーマン」には、サラリーという言葉と月給というシステムだけが残り、風情は失せた。印税はこれにとても似ている。 |
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