斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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カンパのチームワーク

いま木曜日の午後4時だが、あと数分すると開発の勝田チーム(要はこちらの拠点にいるメンバーをこう呼ぶ)全員で映画を観に行くことになる。
タイトルは「パイレーツオブカリビアン2」である。そしてそのあとに十番で宴会。

今週は、とにかくスケジュール出しとそして納期との戦い。
4階チームは、僕がこれまで6階にいたから、釈然としない中で日々を費やしてきたことが判明した。
だからいまは僕も4階に移動し、毎日仕様確認、そしてコミュニケーション促進、ということになる。10時の朝会から参加している。

人間というのはおもしろいものだ。
どんなに立派な組織でも、どんなに予算の大きいプロジェクトでも、ダメなものはダメだ。ダメだとぜったいに失敗する。その原因はすべて「個人」のモチベーションだ。モチベーションというとありきたりすぎるのであれば、各個人の「カンパ」だ。

仕事の品質というのは、各個々人がちょっとした工夫や創意の「カンパ」をどれだけ出してくれたかできまる。カンパがあつまった量だけ仕事は完成度があがる。カンパがゼロでも成立する業務があるだろうけど、ことソフトなんてまったく成立しないものだ。

実は、メンバーというのは、このカンパをしたくないわけではない。いやむしろ、したいのだ。だけどできる環境を用意しないと、自発的にはしてくれない。このあたりも一般的な「募金」と似ている。したい気持ちはあってもうまくしくみができていないと行為という形へ流れてゆかない。

この雰囲気としくみをここ二週間徹底的にやってきた。
疲れたけれど、そして「いままで現場はなにゃっていたんだ!?」といいたいけれど、やらなきゃ。

そしてすこしづつ流れができてきた。
今日は、なにも達成していないけれど、その雰囲気がすこしづつできてきた打ち上げである。

映画なんてたいした企画じゃないけれど、いまフロア内がうれしそうな雰囲気でざわついてきているのが手に取るようにわかる。このままうまくいくといいなぁ。

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連載という名の欲望

060726掲載

第一回目の原稿を今朝入れた。
水曜日から始まる毎日新聞での連載の原稿である。
毎日新聞といってもネット版だけどね。(これはつまりMSNのニュース欄ともいえる)

「なんだ、ネットか・・」
そういう反応が周囲にいうと、すこしある。
たしかにネットより紙の法が格が上だ、というイメージがある。
個人的にも同感である。

知人は某紙で連載小説の話がきて引き受けるか迷っているという。
週6日というから、これは大変である。(その新聞は巨大紙だ。)
作家としてはたいそうなチャンスであるが、表現者としてはかなりのプレッシャーと戦うことになるだろう。

書くということは、なかなか大変なことだ。
連載、となると、さらなる覚悟がいる。
頭をかきむしるにとどまらず胃に穴があく。
ワープロの時代だから原稿用紙を破ったり鉛筆を折ることはないだろう。すると作家が苦しむとマウスや携帯が痛めつけられることになるのだろうか? だとしたら高くつく。

表現をするという行為は人間本来の欲望だが、それが連載という名に変わると苦痛になってくる。
トムソーヤのペンキ塗りの理論と同じだ。
どんな好きなことも仕事にすると苦痛になってくるものだ。

しかし、締め切りがないと作品なんて出来上がらないと夏目漱石は言った。
だから最近は、「催促してくれる人がいることはありがたいことだ」、と思うようにしている。
叱ったり褒めてくれる上司が不在の本業と比較すると、その貴重さは間違えない。
人間、おわりがないとおわらないのだから。

その点で、「ネット」というのはどういうわけか気がすこし楽だ。
分相応という気がする。
ゲームも連載ができたらいいのに・・。
最近本当にそう思う。

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夜の大人のつるかめ算

最近のニューハーフは綺麗である。酔った時にはさらに色っぽくみえる。
雨の平日のせいか、僕らの席は客三人に対してニューハーフ5人、合計8人がテーブルを囲んでいた。

「この中で完全に性転換したのは何人なの?」
古くから行くニューハーフショーパブでそう聞いた。

「さあて、何人かしら?」
「あててみて!」
古株のおかまたちがそういった。
「ヒントは?」
「ええと、私たち合わせて、さおの数が玉より3つ多いのかな・・・」そういいながら顔を見合わせる。
これはつるかめ算か!?

解法のヒントをM大学出身のM氏がおもいつくまま解説した。

1.玉の数は偶数である
2.「たまなし竿あり」、はあっても、「たまあり竿なし」、はない。
3.全員男だと仮定すると、竿5たま10である。

さて、答えと解法がわかった人からは書き込んでください。

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国際交渉のゲーム理論

060719掲載

北朝鮮が国際交渉で奇妙な支配力を発揮している。
交際交渉で先進国がここまであたふたするまでの影響力をなぜ北朝鮮が持つのかという疑問は誰のあたまをも一度はよぎっているのでと思う。

これからの焦点であるアメリカと北朝鮮のかけひきは、「ゲーム理論」にのっとって観戦すると実に興味深いケースである。

そもそもゲーム理論というのは、人間の駆け引きを数学的に体系化した理論である。ゲームという言葉は共通しているけれど、冷戦時代の外交やビジネス交渉のための理論として発展してきたものだ。だからいわゆる昨今のゲームソフトの制作者で興味をもっている者はあまりいないようだ。だが、実はゲームの基本形がここにはある。この分野は1994年にはノーべル経済学賞を排出しているほどである。

ゲーム理論の基礎はアメリカがルーツで、フォン・ノイマンという数学者がその基礎を気づいたといわれるが、その基本は「囚人のジレンマ」といわれる逸話に集約されている。
その内容の特徴は、すべての駆け引きがそうであるように、ベストの選択肢が相手の出方によって変化するという点におかれている。
相手がどういう手で出てくるかで次のベストが変化する。こちらがどう出るかでふただひ相手の選択肢も変わるわけで、最終結果が相手というの不確定要素によって決定されるという状況をモデル化するのが目的である。
で、その組み合わせをすべて計算すれば、両社にとって一番メリットがある妥協点がおのずと見えてくる、という理論である。これはゲーム理論ではナッシュ均衡と呼ばれ、一方がこれを外れるとどうあがいても損をすることが確定する。まさに冷戦時代の核威圧ゲームがこれにあたる。この結論としてはアメリカ、ソビエトどちらも核を使わないことが互いに最大の利点をもたらす、という結論がもたらされる。互いに損失を出してまで戦争を実行するまでもない、という理論は2500年前の孫子の兵法の基本原則に帰着する。

ただし、そこには前提がある。
こちらも相手も同じインテリジェンスを備えているということが必要となる。その前提が崩れるとこの理論は崩壊する。
これはつまる所、「生への願望」や「資源の枯渇」など人為的に解決不可能かつ不可逆な不都合を仮想敵にすることで同抱意識を人類にもたらす知恵である。よくよく観察すれば、国連憲章など世界共存の理念はすべてこの類によって構成されている。

だからアメリカは、支配権を有利に手にするため資本主義を広め、人類の価値観を啓蒙してきた。それによってゲームを有利的に進められるからである。

だが、「敵国を叩き潰すためには自分たちが滅ぶことも辞さない」なんていう国家が参加してくると、このゲーム理論はぐらついてくる。「盲信的思想」はこの理論の敵となる。交渉が不可能となると、残される手段は武力行使のみという最悪のシナリオとなる。

北朝鮮が何を望んでいるのか?
なににもましてそれがこの国際交渉の妥協点の有無を決定するすべてのスタートである。

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境界線

060717掲載

不言実行、という言葉がある。
一方で、それが転じた有言実行、なんて言葉もある。

だけど、言ったことと行動がぜんぜんかみ合わない、という人がいる。
なんど指摘してもかみ合わない状況が続くのである。
これはなんと呼べはいいのだろう?
僕は勝手に、有言反実行障害と名づけることにした。

社会生活において、人の習癖を「病気」とか「障害」とするのはきわめて失礼きわまりない表現である。
だから通常はそれらは性格とtか特徴と呼ばれる。
性格や特徴が著しく本人および周囲に不都合を及ぼす場合、周囲としてはふたつ選択肢をもっている。指摘するか、あるいは黙視するか、である。
勇気を出して前者を選択した場合、大きなリスクが伴なう。人と人とが感情的に対立するリスクである。
だからなかなか難しい。
なんとか共通の問題として取り組めないかと思う場合が多々あるのである。

*************以下、仮定の話である。

「斉藤クンさ、職人ってのはさ時間にうるさいからね、時間にルーズじゃだめだよ」
と、ある一度知人に叱られたことがある。
もっともだが、実はこの人自身が、時間や事業計画に極度にルーズだと仮定しよう。当の職人からも、「あまりに時間にルーズすぎて仕事が難しい」というクレームが入るくらいに。
かくいう今日も約束時間の15分前にメールでドタキャンを食らった。正直、「またか」とその人の人格にまで不信感が及んだ、と仮定しよう。

「このビジネスが成功するまで徹底的にやる。だから失敗という文字はない」
そういいきった人が、延々と続く赤字に対して何も手を打たないままだと仮定しよう。
周囲のアドバイスを頑なに聞き入れずに、ただ日々をすごしている、といったような。

実はこの人物、この有言反実行障害のせいで、仕事もパートナーシップも失敗に終わるケースが多いことが判明している。
本人が気づいていないから、周囲はこの人の話と行動のギャップに戸惑いながら、やがてはすこしづつ離れてゆく。
これはその人も会社も、とても損をしている状況が継続することを意味する。
なんとかしなければならないが、習癖になるとどう取り組んだものか、周囲もあきらめ気味である。
最後に損をするのは本人である。

解離性同一性障害、という病気がある。
トラウマなどが原因で、別の人格が姿を現してしまう、いわゆる多重人格、というものである。
多重人格などと書くと、自分たちとは無縁のことのように思えるが、病気と健常の違いっていうのは実は曖昧ではないだろうか。
今回のようなケースも、むしろ、周囲と共同で取り組むべき問題のように思える。というのも損をしている点において関係者はみな味方といえるから。

かつて仕事の許容量を超えると極度のパニックになる人のケースに遭遇したことがある。一般的にパニック症候群と呼ぶのだろうか?表現が難しいが、なんとも手に負えないという状況がそこにはあった。乱れ飛ぶ罵倒の言葉の末路に絶望的な虚無感を味わうことになる。むしろ病気だとしたほうが周囲としては冷静かつ協力的でいられると思った。

トム・クルーズがLD(Learning Decease;学習障害)だったという話を聞いたことがあるけれど、誰かが宣言しないと判断できないものだ。僕自身も、会社であれこれと忙しく声をかけられているうちに、もともと自分が何をやろうとしていたかわからなくなってしまうという症状が最近頻発していて、その病名が何なのか調べようと思っている。

周囲を見回すと、病気と呼ぶにはたしかに疑問だが、やや近いと思えるケースが少なくないことに気づく。
病気というのは合意の上に定義されているものだから、素人が一方的にそう宣言することは不適格である。
しかしもし病気が見当違いであれば、障害、とか、症候群とか、とにかく本人の人格とは別に名前をつけて立ち向かわなければと思うのも事実である。
そうすることを臆するがあまり、蓋をしてしまっているといつか爆発するものだ。

事実、最近日本のビジネス界は水面下で危機に瀕しているといわれる。業務と密接に関係する精神的負荷によるものだ。残念なことにそれに対処するカウンセラーが育っておらず、それが日本が精神の分野において後進国である証になりつつある。精神科というのは意思免許をもった医師が処方箋を書くところだ。心の病の原因に直接取り組む医師はいない。カウンセラーがその役割を担う。だが日本にはその資格が存在しない。

一部の大手企業がようやくそれにとり組もうとしているという事実を最近知った。30年来の友人が、自ら企業内でその役を買って出たという事実からである。

「病気です」
そう診断されるとショックなものである。
だけど、それがすべての改善へのスタートなのも事実であって、蓋をしていたのでは先送りにするだけとなってしまう。

ちょっとしたずれが、実は病気であるとしたとたん周囲の理解と改善協力が得られるのであれば、むしろそう宣言して協力体制を組んだほうがいい結果になるかもしれないと、思う。

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金剛地武志後半

060717掲載

三連休最終日の早朝に書いている。
すっかり夏休み気分なので、週末に会った古い友人について書こう。

*************

かつてYes, mama ok?という音楽ユニットがあった。
僕は、彼らの作品と出会ってからすぐに大ファンとなった。
東芝EMIがTower のトリビュート盤の企画モノCDを出したとき、1996年のことである。
その中の一曲が彼らによるものだった。

その中心的な存在であり作詞作曲を手がける金剛地武志くんは、「天賦の才能を持つ」と僕が思う数少ない人物だ。それからだから、彼との付き合いはすでに10年を超える。

彼は、最近あちこちに登場している「エアギターという変な芸」のコメディアンとして知られるキャラクターとはうらはらに、実に繊細で控えめで、そして思慮深い人物である。しかも世慣れしていないというか純粋すぎて社会への免疫がない。それが友人としての魅力に輪をかけている。

そんな彼の曲がどれだけ優れているかは、Yes, mama ok?のインディーズ時代のCD(入手は容易ではないかもしれないが)を聞けばわかる。
僕が一番すきだったのは「砂のプリン」という曲で、この詩を聞いたら、ありきたりのJ-popなんて聞く気になれなくなる。
それから比較的最後の方に出したCDに収められている「問と解」の歌詞。一昨日車でもらったばからのトリビュート盤を聞いていて涙がこぼれそうになった。このCDは、前日にオサムちゃん(理由あって金剛地氏を僕はこう呼んでいるのです)からもらったものである。

先週の金曜日、つまり「はなまるマーケットみたよ」電話の翌々日、久々にオサムちゃんと、そしてYes,mamaのもう一人のメンバーであるTクン、そしてオサムちゃんの今のマネージメントを取り仕切るA氏、さらにそれぞれの個人的同伴者など合計7名で食事をすることになったのである。麻布十番集合の和可菜寿司の座敷ではじまったこの会合の雰囲気はまさに同窓会だった。オサムが連れてきたMちゃんという女性もミュージシャンだそうだが、むしろその素敵な人柄に、「よかったなぁ、オサム!!」と肩を叩きたい気持ちになった。(もちろんT.Aさんも素敵です>Tクン)

「アニキ、これ、お中元っす」
会の途中でオサムちゃんが、照れくさそうにワインらしき包みを僕にくれた。
お中元を手渡しでもらうことなんて初めてだったが、オサムちゃんから物をもらうのも初めてだった。
まるで出世した卒業生を見る担任教師のように、いたく感動してしまった。

そろそろ、おひらき、というタイミングになって会計をしにいくと、「もういただいてますから」とすし屋の主人がいう。
これもオサムちゃんによるものだ。
自分で伝票を取るなんて、なんと大人なミュージシャンなことか。あまりいないです。

「いつか出世払いで払いますよ」
前世紀に飲んでいたとき(爆)はいつもそういってたけど、本当にそういうのができる人になったんだね!!
金剛地くん、あなたは間違えなく僕の金曜日をとても素敵な日にしてくれました。
本当にありがとう。
Aさん、とてもいい人だから、仕事これからもうまくいくと信じています。

ますますがんばってください。

これからもよろしくね!!!

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お父さんのためのゲーム講座

060714掲載

狭いオフィスに置かれた机に並んで座る男と男。
そこにあるのは煮詰まった停滞感と押し殺したような無言の絶望感。
一人はこの会社の社長であり、もう一人は同社の唯一の社員である。

今日も一本の電話もかかってこない。1時間もあればこなせてしまうわずかばかりの仕事が二人を今日も待っているだけだ。
だが、だからといってそそくさと帰宅の途につくわけには行かない。
ただここにいることだけが、彼らの一日においての仕事らしい仕事なのだから。

この息苦しい重圧感の中でこそ、人間関係の最小単位が存在する。

さて、この二人が相対する敵対関係になるか、それとも協調する良好なパートナー関係になるか、
両者の関係を決める要素とは、いったいなにだろう?

それこそがゲーム理論のスタートである。

「お父さんのためのゲーム講座」

近日公開。

つづく

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オサムちゃん(金剛地武志-前半)

朝、はなまるマーケットを見ていたら、最近「エアギター」などという安っぽい芸で売り出している一過性タレントが出ていた。

この男の顔かたち、しぐさまでが、僕の弟分のオサムにそっくりなのである。
オサムはこんな二流芸人とは違い、才能溢れるミュージシャンである。実に心に染み入る詩と曲を書く、隠れた天才だ。二人デュオでエドサリバンショーに出ることを誓った中だ。いかんせん筆が遅いことが災いして、テレビのバイトで食いつないでいるはずだ。僕は僕で今の仕事に甘んじているが・・・。

「おい、オサム、お前にそっくりな金剛地とかいう二流タレントが最近でているから、気をつけろ!」
テレビを見終わってすぐにオサムに電話した。

「・・・・・・・」

「オサム、聞こえるか?オレだよ、オサム?」

「あのねアニキ、おれのことオサムって呼ぶの兄貴だけっすよ。」

「おお、聞こえてんなら返事しろよ! じゃなんて呼べばいいんだ?」

「俺の本名はコンゴウチ・タケシっていうんす」

「・・・聞きなれない名だな・・。となるとあのエアギター男とはどういう関係だ? まさか兄弟か?」

「だ・か・ら、あれ、おれっすってば!」

「なに? まさかおまえ、ギター捨てたのか!?」

「捨てたとかそういうんじゃなくてエアギターっていうんでし。あのね、そんなわけのわからないこというの、アニキだけっすよ。オレ最近売れっ子なんで有名タレントとの打ち合わせで忙しんす・・・・きりますね・・・(プープー)」

「!?%$&#"#$#・・・」(アッチョンブリケ)

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オサム、おまえ、名前も魂も売っちまったのか?
ギターもイシバシに売り渡しちまったのか?
童貞まで金持ちのババアに売り渡してないだろうな!?
一緒にニューヨークに行く夢、忘れちゃいないぜ!!

つづく

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冷静でいられること

060712掲載

いざ自国近辺にミサイルが撃ち込まれ、敵基地攻撃が政治家の口から出はじめ、日本国全体に、戦争のムードが漂い始めている。

アメリカが戦争を仕掛けるたびにファッションのようにLove & Peaceを掲げたアーチストたち。はたして彼らはそのポリシーを保ち続けられるのか?彼らのBLOGではこれからどんな言葉が発せられるだろうか?

人間、冷静でいることは容易ではない。ニュース番組をみながら、「やってしまえ!」と心の中で叫んだ自分に気づく。
メディアが気運を煽っているようにも見える。

戦争というものがどれだけいたいたしいものか、僕らの世代は知らない。
だが、すくなくとも僕たちは気運に流されていることくらいは、早く気がついた方がよい。冷静さをすこしづつ欠いていることにも。

すこしくらいカッコ悪くても、主流からずれているようでも、Love&Peaceを掲げるアーチストが出てきてほしいと思う。反戦メッセージはファッションであってはならないし、僕らを正してほしい。

追伸

Hさん、お誕生日おめでとう!!

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0の焦点

060708掲載

(ゼロ)を発明したのがインド人の功績だとすれば、今回の「0の焦点」は、僕の今年最大の発見といえるかもしれない。
学会発表に先立ち、本BLOGの読者にだけ先行公開することにしよう。なんちゃって。

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日本企業の国際表記などでは電話番号を
81-3-3730-1111
などと表記する。

これは海外から日本に電話をかけるための番号表記で、81は日本の国番号、303という東京の市外局番から0をとったものである。
海外旅行をした人はみなご存じと思うが、日本への国際通話には、市外局番の最初の
Oを省略するというルールがある。ではなぜ市外局番から0をとるのだろう?と飛行機の上で考えていたら、おもしろいことに気づいた。 

すべての市外局番の頭が0であるならば、この0には情報性が皆無であり、ならば無意味な数字のために貴重な電話交換機のデジットを一桁も割り当てられない、というのが海外から接続する電話会社側の正直な意見にちがいない。

ではなぜ日本は市外局番には無駄な0をいまだに固定でつけているのだろうか、という疑問にゆきつく。 

実験好きな子供だった僕は、市内通話をかける際に、意味なく市外局番から回したことがある。近所に電話をするのに03から回したのである。たしか中学生くらいの頃だったから賞を50年代くらいのことではないかと思うが。
すると正しい通話ができなかった (当時)。詳しくは記憶していないが番号が正しくないといった音声メッセージが流れたような気がする。つまり、市内通話に付加してはならないのが市外局番だったのである。インターネット同様 ローカルエリアのことだけ考えるのならばグローバルIPアドレスは不要である。

ところが、外の交換機に接続する必要がでてきたときに、電電公社は、ごく自然な発想で0という特殊な番号を付加することを思いついた。この0は、普通の番号では使用されていない特殊な番号であるが故、後々フリーダイアルをはじめ、いろいろな特殊サービスに使用されるようになった。0がまわされると、局外の交換機にまわしますよ、というサインである。つまり045というのが市外局番というのはうそで、0は局外通話のサイン、市外局番は45というのが正確である。

携帯電話の090も第二電電などの0061も、見ようによっては、48番目、49番目の市外局番のようにみえるのも道理だ。


アメリカではどうかというと、遠距離電話をする際、1をプッシュし、つづけて市外局番をまわすしくみになっている。ただし1というのはユーザーが契約している遠距離電話会社などに接続されるためのサインでありフリーダイアル(1-800-)もこれに属する。電話会社はユーザーがあらかじめ選択指定した業者を意味する。(0はちなみにオペレーターのための番号である)

となると、アメリカと日本で、市外電話をかける違いは、1+市外局番、か、0+市外局番か、だけの些細な違いではないことがわかってくる。
電電公社は、局外局番の0の機能を他社に解放しなかったのだ。

つまりこの一桁目は、アメリカでは市外通話のためのサイン、であるのに対して日本では電話番号の一部、になったままである。局内から出るための相対座標を、そのまま地域を指定する絶対座標の一部にしてしまったのだ。そこに「遠距離電話会社を選択する」というクッションをはさむ発想はまったくなかった。

いいかえると、アメリカの1はユーザーが指定した遠距離電話会社の交換機へのものであるのに対して日本の0NTTの交換機を使用する前提となったままというわけである。つまり僕たちがみかける0473(千葉)という市外局番のOはすべてNTTを遠距離電話サービスに指名する番号なのである。この0という特殊な番号が解放されないままでいるから、他の長距離電話会社を利用するにはさらに別の市外局番的な数字(0061など)を付加しなければならない。日本は、NTT以外の電話会社を使うと番号が長くなる。こんな面倒はない、ということで、他社は苦戦している。そして僕たちの名刺やすべての広告も、気づかないままNTTの番号を表記しているのである。 

もしこの0を、アメリカがそうしているように、複数の会社で共有する形になっていたならば、日本の電話代はもっと競争にあふれた違ったものになっていたに違いない。
つまり日本の電話代が高いのは、この0を解放していないことに帰結する・・・これが僕の機上での大発見というわけである。笑

海外に出てみないと分からないことがたくさんあると人はいう。日本は島国だともいう。そんなことはないと思いながら近代都市に住んでいる僕も、気がついていないことがたくさんあることに 

海外から日本にかける時の市外局番の0を省略するという違和感のあるルールは、遠距離電話会社を必要としない国際電話が、日本特有の不可思議なこの閉鎖設定をスキップしただけの話だったのである。

・・・・・まさに機上の空論だ。