「面倒見のいい知人の社長が100万円出資をしてくれることになった」、といって喜んでいる男が、かつていた。その頃は彼もまだ脱サラしたての時期だから、100万円という金額はかなりの高額である。有限会社の資本金300万円のうちの100万円だから比率も小さくない。
関係を聞くと、サラリーマンの時代からなにかと懇意にしている中小メーカーの社長だという。男は嬉々としてその出資を受け入れた。
一般的に資本金というのは借金とちがって、「返さなくてもいいお金」と認識されている。それがポーンと入金されるのだから、彼にとってはうれしくないわけがない。
さて男がこれから創業するその会社はどんな会社かというと、いわば編集プロダクションだ。社長である彼はその才能をウリとして切りまわしてゆく業態である。「ソフトの時代到来」と騒がれ始めた90年代のことだから周囲関係者は漠然とした期待を寄せていた。
そして無事登記が完了し、脱サラした彼はあたらしいオフィスに什器を入れ、編プロを開始した次第である。
やがてしばらくするといつしか彼の口からはこのエンジェル氏の名前が出てこなくなった。
関係が芳しくなくなったらしい。
何が起きたかというと次のようなことだ。
しばらく会社をやっていて資本金はなくなった。事務所は自転車操業になった。ここまではよくある話である。だがそこで重要なのは、資本金がどんな姿の資産にかわったか、である。
従業員を何人も雇いいれて拡大してゆく、というような類の業種ではないので、しかも合う合わないの激しい彼の性格がら、社員はひとりも採用していなかった。その結果、売上は彼がひとりで稼いでいる状況で、あがった利益の支配権はおのずと社長である彼のもののようになっていった。配当があるわけでもなく、懇意にしていた出資者の社長が、「せめてうちの会社案内をつくってくれ」などといった仕事をうける余裕もないまま、時間は過ぎていった。
やがて出資した社長も「出資している意味がない」ということとなり、ついには返金を求めてきた。そうなると返せ、いや返せない、という議論はついには喧嘩となってしまったそうだ。
結局その100万円がどうなったのかはよく知らないが、ひとつだけ明らかなこと、それは、彼とその出資者との人間関係は完全におわったということである。
出資というのは元金をかえさなくてもいい金である。だが寄付ではない。その違いはというと、寄付は見返りを求められないが、出資は求められる。一般的には「配当」であったり、百歩譲って、芸能プロダクションだったら宴会に売れっ子タレントが出席するような「優待」だったり、レストランだったら「特別割引」といったように、とにかく出資者というのは投資先からのなんらかの見返りを期待している。いわれてみればなんてことはない、これは資本主義の大原則である。
つまり、だ。資本金、というのは使うものではなく運用して増やすものである。姿をかえてチャリンチャリンと利益を落とすドル箱製造機にならなければならないのだ、ということを僕が知ったのはここ数年のことである。
彼はひとりで仕事を受けてきてはこなし、事務所の経費も払い、とそれなりにやりくりしてなんとか廻っていた。そのドル箱製造機が工場や利権ならいいが、このような個人労働ではいつまでたっても産業化しない。そこから産み落とされたチャリンの行方で揉めることになる。
僕がこの一連の件で学んだことというのは、投資と回収はペアである、というありきたりのことだった。ただ一点、この回収は、継続的、つまり半永久的に続くのがミソである。誰がいったか知らないが、「資本金とは返さなくてもいいお金」というのは詭弁で、運用し続けなければならない元金、それがその正体である。もっといえば、返済することができないお金、それが資本金だ。
しかし、この大原則はあくまで原則であって守らないと罰則があるわけでもない。出資する側は確認するまでもない常識と思っていることも、これから会社を始める側の頭には、からきしそんなたいそうな意識がない。これがすべての元凶である。
たった一度きりの好意をうけたばかりに、なんでこんなに付きまとわれなければならないのか、みたいな愚痴が酔った彼から口から出てきた時には、すでに関係は修復不能の状態になっているなということくらい、僕にもわかった。
仕事は日々大変な思いをするものである。そういうきりもりしていると、出資のありがたみなんてものは日々薄れるものだ。しかもこういった個人事務所がわかりにくいのは、どんなに業績がわるくても「つぶれない」ことである。つぶれないから経営責任もくそもなく細々と続いてゆく。だから面倒なのである。
この状態では見返りを求める出資者はいつしか厄介者扱いされるようになる。逆ギレした返済者が恩人をボコボコにする傷害事件は後を絶たないが、好意が裏目に出るという点ではどちらも似たようなものかもしれない。
この経緯をみていた僕の結論としては、独立祝いで出資、はしてはならないということだった。「黄色いモンシロチョウ」といってるようなもので、祝い金、と出資金、は完全に矛盾した概念なのである。
お互いよかれとノリで結んだ関係が、やがては人生の思い出までをも悲惨なものにしまうという点で、出資というのは恋愛に似ているかもしれない。
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