知人の作家の長嶋さんに連れられて、文学界の受賞式に顔を出した。
今年の野間文芸新人賞は、中原昌也さんの「名もなき孤児たちの墓」が受賞した。
まったくの門外漢ではあるが、いや、あるからこそ、僕はこの受賞を一番おめでたく感じているのではないか、という気がした。
△受賞者でなかったら帝国ホテル"孔雀の間"に最もそぐわなかったかもしれないいでたちで登壇した中原氏
暴力温泉芸者という名でミュージシャン活動をしている頃に、そのとんでもない音楽作品に大笑いしたことがある。東芝EMIからかつて出たTowerのCDにも参加いただいていた。
中原氏とはじめてお会いしたのは、とある映画の試写会にてであった。
こちらも長嶋さんの紹介である。
そういったイメージとはうらはらに、中原氏はとてもデリケートで繊細な人だった。そして苦しんでいた。批判すべきものは徹底批判し、その結果多くの敵をつくり、さらにその逆にいる人たちが彼の存在をずるく、うまく利用している、ということか?(あくまでこれは僕の推測であるが・・)。便利に利用され都合よく消費される一過的な物書きとしての存在・・・、これはゲリラ的ゲームの次に進むべき方向を見失いかけている枯れかけの僕に似ているではないか・・と思ったりした。その苦しみ方に、なぜだか共感をおぼえ、アマゾンで何冊か本を買って読んでみた。
氏の作品が今年の芥川賞候補になった時に飲んだことがある。そのときも、実に苦しんでいた。選考される側というのは、そこまで苦悩するものか、というくらい苦悩していた。なぜにそんなに苦しんでいるのか、周囲がよくわからなくなるほどその苦悩はぐるぐるとまわり、けっして地面に着地することはなかった。ひとつだけ僕にもわかったことといえば、氏にとっては、この「金がない」という物理的な状況も大きく苦しみに拍車をかけている、という事実くらいだろうか。「貧困が苦悩の本質ではないとおもうが、かといってあながち冗談でもないように思えた。飲み代をあまりもってない」そういう中原氏は、「不潔にして高潔、貧困にして高邁な理想」(でいいんだっけ?)という古き早稲田学生の言葉を思い出させてくれた。貧乏は恥ではない。そう思える気持ちは、大金が行きかうゲーム業界などにいたおかげで久しく忘れていることに気付いた。
授賞式で中原氏は、見覚えがある茶色いジャージのまま登壇した。おそらくは、会場内でいちばん貧相な服装をしていた。いや、服装だけではなくて一番貧乏であるに違いない。
苦しんで、絶望して、もう小説なんか書くものか、といっていた知人が、世の中に認められ、華やかな壇上に上がったとき、「ほんとうによかったな」と思えた。それは決して彼のためでなく、そこに、もうひとり、絶望しかけている自分を投影していたから。
世の中はそうそうすてたもんじゃない、という希望を、彼の受賞は与えてくれた。ほんの少しだけ、元気をもらって会場を後にした。
文学界のことなどよくわからないが、いま自分がいる業界はすいぶんと恵まれたところなのだ、と思う。
(12/17写真および文章を一部追加)
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