辛くなると電話するI氏という知人がいる。
さっき電話した。
曰く、もう一週間近く、K談社に泊り込んで徹夜で書きモノをしているとのこと。
大丈夫かな?締め切りはとうに過ぎているはずなのに・・。
そう思いながら、自分の筆が煮詰まっていることからくる苦痛が和らいだ。
人間まったく都合がいい生き物だ。
「自分とおなじ境遇の人」といえば聞こえはいいが、要は傷を舐めあってくれる人、もしくは自分より不幸そうな人を探して、自分が楽になりたいだけではないか・・。
人工知能系の行動パターンを考えていていつも気付かされる事実。それは人間が誰かを好きになる、誰かを支持する、誰かに貢献する、そういう行為の動機を細かく分解すると、結局、自分のメリットがある場合に限られる、ということ。これは動物よりは複雑思考をする人間はややわかりにくいだけで、しかし結果として導かれるのが「神の見えざる手」であることに違いはない。ロボットに知能があるようにみせるには、まずは機械に「欲望」を覚えさせないとならない、これが残念ながら、ひとつのポイントである。
「そんなことはない、人は人を愛することができる。メリット・デメリットなんかとは別だ」と僕もいいたいのであるが・・。要するに不都合がメリットを上回れば人と人は離別する。周囲の人間関係を観察していてもこれってかなり明確である。幸い個人個人の価値観のズレがあるから、そして勘違いもあるから、辛うじて社会のバランスを取ってくれいるだけで。
I氏との会話で、僕の気持ちは間違えなく和らいだ。そしてI氏のことをますます好きになった。でもこれってね、I氏のことが好きなのではなくて、自分の苦痛を和らげてくれる人が好きなだけなんだろう、と思ってしまう僕は、所詮自分がいちばん可愛い煩悩のかたまりである。
煩悩を捨てるってことが聖人に近づくための第一歩だ、という考え方は、この意味で「正」なのかな・・・。すこし悲しい結論だけれど・・。