「みんな、行くぞ!!」・・・・・・・(自らが率いる軍勢に信長が叫ぶセリフ 続いて信長軍勢が雄叫びを上げるシーン)
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「ちょっと待てっよ・・・ 『みんな、行くぞ!』 はねぇだろう!? だってそれ、戦国武将のセリフでしょ!? せめて『我に続け!』とかさ・・・」
焼酎のグラスを握りながら、セガのM氏は呆れ顔で、自社ゲームのベータ版・レビューの印象を語った。
M氏と食事をしていて、ゲーム業界人はリテラシーが低い人が多すぎる、という話で出てきたエピソードである。
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言葉を略しすぎて、コギャル会話さながらに何の話だかわからない、というケース。雰囲気はわかるんだけど、まるで仕事の情報にはなっていない、そういうのが多いんだ、日々。
今日は、そのあたりについての話。
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ゲームとは『言語』である。
絵と音が組み合わさって入ればいい、というものではない。そこに文法がないと、プレイヤーと作品との駆け引きが成立しないのである。その文法を設計するのがゲームプランナーの仕事だ。
だからそこに一番必要な能力は、「言語能力」ではないか、と思う。ゲーム企画は、作詞や作曲とはまったく違う、地味な構造化の作業だ。作詞や作曲は言語を「使う側」の創作だが、ゲーム企画は、言語を「つくる側」の仕事である。そこに文字や音符のような記述言語は存在しない。設計者は言語中枢が発達していないとその企画は体系化しない、つまり「閉じない」。文法というのは有限数のカードで閉じられているからはじめて文法になるものだ。
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野球というスポーツの、ある瞬間々々を切り取ると、実はどれもすごく単純な行為ばかりだということに気づく。選手は「投げる」「打つ」「走る」「捕る」のいずれかの行動しかしていないのだから。ゲーム性の本質というのは、カードはどれも単純記号化されているものである。
ゲーム業界人が、「3D」や「ファンタジー」のマニアだけでは成立しない理由はここにある。優れたファンタジーは、「登場キャラ」や「魔法使いの術」がどれも言語化されている。 ゲームのエンジン部分、たとえば『チェス』や『将棋』や『テトリス』のようなゲームのゲームたる部分、を発想するのに必要なことは、言語の部品をつくる能力なのである。
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DSのような携帯機は、描画能力は高いとはいえない。
だからこそ、マッチョな3Dゲームプランナーの出番は少ない。
その分試されるのはプランナーのリテラシー(言語能力)である。
任天堂タイトルが一人勝ちする理由はいろいろとある。
だが、不服をいう前に、いちばん業界人がいま考えなければならないことは、「それが本当にゲーム言語として完成されているか?」ではないかと思う。
「みんな、行くぞ!」
・・・もし本当にただの不用意でそういうセリフを入れたのであれば、その人は、セリフ以外のすべての「言語」に対しても鈍感な人にちがいない。ま、これは皮肉めいたひとつの例えにすぎないけれど・・・。
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