斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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「正義の正体」

「ムネオハウス」という言葉は英語であって、いっさい英語を使わないロシア人には無縁の呼称であるし、彼らはそもそも姓で名づけるのが慣習だから、こんな命名など彼らの歴史上ありえない・・・・。

道を踏みはずし身柄を拘束された外務省官僚は、検察の提示する筋書きに反論した。

そうか、たしかにそうだ。じゃ、ムネオハウスなんてそもそも誰が命名したんだ!?

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このたび佐藤優氏の著書をはじめて読んだ。で、このエピソードが脳裏に残ったというわけだ。

ホリエモン事件では、テレビでコメンターが「検察が書いた筋書き」という言葉をよく使っていたが、僕たちは、どうせ裁判所が適切に判断するものだと思い込んでいる。いや、裁判所だけは聖域であってほしい、と願っている。よもや、検察に控訴される判決を出すと裁判官は出世から外れる・・・そんな不文律があるなんて知らないわけだから・・・。

この本にかかれていることがすべて事実かどうかはわからないけれど世の中の反応をみると、どうやら事実くさい。もし日本の正義というのが、司法の中核にいる少数の人間たちの目論見によって作られているとすれば、・・日本という国は、とてもこわい。ナチの秘密警察みたいに、こわい・・。

かつてエジプトにいったときに一番怖かった体験、それは取調室にて入国審査官自らが贈賄めいた取引をちらつかせてきたことだ。犯罪者よりも、病気よりも、官吏が機能していないことほど旅行者に怖いことはない。「頼るべき正義が不在」という恐怖は、日本では感じ得ない感覚だった。

だが昨今の多くの指摘にあるように、日本のファシズムが健在なのかもしれない、私たち平民には見えないだけで・・・・。

裁判員制度は、いずれこの構図に好影響となってくれるのだろうか?

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TowerDSの特典である文庫本について

次に本にまとめようとがんばっていた原稿は、「ゲーム企画講座」的なものである。

だいたいさ、ゲーム制作を志す者に「技術本」みたいなものはあっても、「企画の教本」がない。だから日本はダメダメ、ハリウッドで味をしめたアメリカに抜かれちゃうよ。

しかも専門学校をしっかりと教えている学校がない。企画を学んだという卒業生の青年たちはフローチャートもろくに書けない。プログラム科の学生と比べてただの素人のままの彼らは、授業料をたくさん払わされている分、実に気の毒である。専門学校は、もっとまじめに教師を教えんかいっ!!! 営利主義をいい加減に改善せんかい!!!と腹が立つ。名指しで学校名と欠陥カリキュラムを声に出したいほどである。

ま、しかし企画なんてのは、なかなか体系化できないものであって、かくいう自分も自己流で試行錯誤しながら、17年間苦労してきた。苦労したんだから、と貯めたノウハウみたいなものをまとめようという気にもなる。

前作の、「ハンバーガーを待つ・・・」で「発想のパート」はすこしだけ記したけれど、「じゃ企画やその先は?」という要望も強く、パート2ではどんなふうなまとめようかがここ1-2年の楽しみにしてきたのである。楽しみではあったけれど、しかし、かなりめんどくさい作業であることも事実。

そうやって出来てきた原稿はそれなりにいい本に出来上がりそうで、「いざ!!!」と出版社にお願いすることになるわけであるが、その時期になって、「こんなにかんばって書いたものならばできるだけたくさんの人に読まれたい」と思うようになった。書く側というのはそういうものだ。印税のために書いているわけじゃない。かかっているかねの方が何十倍もかかっている(笑)!!

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ちなみに普通の書籍の発行部数というのは、やや良くて6000部とか7000部程度、すこしがんばると20000部くらい。前作の「ハンバーガーを待つ3分間」は、単行本と文庫を合わせて35000くらい。さすが幻冬舎じゃなければいかなかった数字だろうけど、一方で「せめて自分らのゲーム作品よりも多く出てほしい」とも思うわけである。

自分らのゲームの場合の出荷数はその5倍から10倍越え。しかも今回からメーカーをやるわけで、「だったらいっそゲームに特典として付けてしまえば?」、ということになった

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というわけで、次の著書は、「週末になったらゲームの企画をしよう~お父さんのためのゲームクリエーター講座Vol 1~」という長いタイトル名である。これは、The TowerDSに初回特典としてつけることに決定した。。(AMAZONさん、もっと取り上げてくれよ 笑)

かつて「本」がおまけについてくる製品がいくつかあった。チョコレートからダイモ、ラジカセに至るまで、すべてその欲求に逆らえず買ってきた。そしていまでも大切に持っている。おまけの本というのは、子供の僕にとってそれくらい魅力的だった。

携帯ストラップなんかを作って付けるより、よっぽど手間と時間がかかるし、だいたい魂がこもっている。こういうおおまけはきっと喜ばれるんじゃなかろうか?と思う。しかも作ってて楽しい。なんてったっていま僕らは、この本を「出版」するために印刷屋さんに、文庫本の見積もりを取っているのであるから・・・

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The Tower DSは、新しい会社もろとも新規に作った。自分らの金で発売するわけだから、その分自由がきく。そんなわけでやりかったことをいろいろな実験をしている。新参メーカーであるわけだからすこしでもやすく、と最後の最後に「税込で4800」案をなんとか通した。

そんなこんなでTowerDSもさることながら、初回付録で付く「この本」にもすこし期待してくださっていい。 ちなみに予定としては6月29日発売、である。

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コモンセンス

ジェロ君が日曜夜の定番銀組「おしゃれ関係」に出ていた。ついつい全部みてしまった(笑)

てっきり奇をてらった企画タレントだと思っていたけど、ジェロ君は演歌が本当に好きなんですね・・。感心してしまった。

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「この人、意味わかって歌ってんのかな?」
外国人が日本語を歌うとき、とか、逆に日本人が外国語の歌詞を歌うとき、人は無意識にそう思う。
わかって歌っていれば染み入る歌も、そうでないとなったらまゆつばっぼくきこえるから。
音源は一緒なのに、それによって印象が違うのは不思議である。

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Common Senceという言葉がある。
辞書では「常識」と訳されている。
日本語の「常識」とは「最低限の知識」とか「基本的な礼儀」みたいな意味。
もしかしたらこのCommon Senseはちょっとちがう意味かも・・。ジェロ君の日本語を聞いていて、突然そんな気がしてきた。
Common Senceってのはもっとメンタルな意味ではないだうか?
「この表現を使ったら相手はどう思うか」
・・それを察知するのがCommon Senseの本当の意味ではなかうかと。
こういうことがわかっていないと、知識や礼儀があっても、人間性としてダメという、そういう人格性というか。

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「そういう言い方しなくてもいいだろう! 」
人が不快に思うその手の発言を、文法や辞書で機械的に解析してもらしき原因は出てこないものだ。
「不妊症」というキーワード検索したユーザーに、「養子縁組」というキーワード関連づけて書籍を勧めてしまい、後日謝罪した米国の大手書籍サイトがある。この二つを関連づけることの非礼さは文法や辞書や数式ではわからない。それがCommon Senseの意味ではないだろうか? この手の情報はたしかに教科書としてまとめることは困難だ。学校で教えること、ではないかもしれない。
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「だれもが共通して思うこと(Common Sense)」が明文化できないのは、シチュエーションつまり「話の流れ」だから。この手ののものは人の脳の中にあいまいとあるだけだ。学問のように体系化することなんてできない。
「お笑い」はこれを利用した技だ。そういう発想は人間の脳にしかできない芸当だし、不慣れな外国語で人を笑わせることほど難しいことはないということになる。

ジェロ君はクォーターの日本人で、幼少時代は自室に隠れて演歌を歌っていたという。
日常にも流暢な日本語を話す彼は、自分が発した言葉が相手にどう伝わっているか、確実にわかっている。
それがこの番組で日本中に伝わったと仮にするならば、日本人の彼の唄に対する聞き方が今晩からすこしづつ変わってくるような気がする。

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とりあえずの結論として

ゲーム稼業をはじめて17年、独立してからちょうど15年が経過した。ずいぶんいろいろなことを経験してきた。この週末の地方出張で、ふと我を振り返ってみた。そんな話。

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初めて訪れる地方都市でついぞ観察してしまうこと、それは都市構造の規則性。

あたりまえだが目抜き通りの交差点あたりには大手デパートがどんとある。そこの一角にはかにらず海外の老舗ブランドが看板を出していて、それらが300mくらいの範囲に点在して続く。そり範囲にマクドナルドとスタバが一軒づつある。

そこからさらに観察してゆくと、次の大きな交差点には、GAPがあって、角地のビルはたいていその都市の老舗飲食が看板を出している。そこから次のブロックにかけて携帯電話ショップ、カメラ・電気の量販店、パチンコ屋、喫茶店が軒をならべ、そして裏道にかけては歓楽街が顔を出しはじめる。

いわゆるビジネス街は、この地域とはすこし離れて、たとえば駅の反対側、あるいは川の反対側、どちらもない場合は、3ブロックくらい離れたところ。ここに大手証券や保険会社のビルが並ぶ。

冒頭の大手デパート一階の一番目に付くところにはヴィトンとそしてシャネル、次にフェラガモあたりが顔を並べ、コーチとディオールがすこし奥まったところに。そしてあったりなかったりするレアアイテムがハンティング・ワールド・・・。

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フラクタルという理論があって、雪の結晶から蜂の巣、植物の葉脈まで自然が織り成す世界を数式で再現するけれど、人の営みが積み重なって出来てくるこの手の集落。そこにはなんとなく規則性があるように思うのだが、地方都市を訪れるたびにそれを数式化できないかな、と考えてしまう。個性豊かな人間たちが行きかう市街地地、群集という観点で紐解くと、何か複雑系が織り成す規則性の上に形成されるのではないかな?、と。人間は否定したがるだろうが、実はアリや蜂の行動を複雑にしただけの世界観のようにも思えるのだ。

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シミュレーションゲームの企画屋の仕事というのは、こんなような規則性を見出すことから始まる。煩雑の中からその規則性だけを取り出し、それらを因果関係のループとして再定義する、という流れへと続く。

こうやって言葉にすると同業の人間は「たしかにそんなかんじ」と思ってくれるだろうけど、たたかだかこれだけの結論に至るまでに紆余曲折して10年以上かかった。平然と書いたがいまの自分の仕事のエッセンスだと思っている。

言葉で言うのは簡単だが、この「煩雑の中から規則性を見出して取り出す」というのが実はなかなかの苦労で、しかもセンスを要する仕事だ。人が興味をもってくれるテーマでなくてはならないし、意外性もなくてはならない。シンプルすぎると面白みがないし、複雑すぎると意味不明になってしまう。シミュレーションゲームのおもしろさとはそういうものだ。

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文明とは因果関係の記述である。解決とはその実践であり、未来予測とはその応用展開である。

これが僕が17年、ひたすらシミュレーションゲームを作って得た、唯一の結論のような気がする。

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発見機

「あなたの好きな日本の言葉はなんですか?」というレポーターの質問に、その外国人男性は「私のすきな日本の言葉は・・」とカタコトでいいながら、「新幹線」と漢字で書いたボードをカメラに向けた。ぼーとテレビをみていた僕だが、このリアクションにはずっこけた。

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でも僕も、実は新幹線が大好きである。
といっても新幹線移動の空間が好きという意味。景色が変わるし、適度なゆれが気持ちいいし、なぜかタバコもすえるし(喫煙者)、空いてるし(平日)、電話がかかってこないし、とにかくいろいろとアイデアを思いつく空間である。すきな弁当と本を買ってここに乗り込む瞬間がとてもいい。

この快適空間に乗り込むのに、ちょっとしたイニシエーションがある。
それは当日チケットを購入する自動券売機でなんだけど、手続きがおわると無機質な女性の声で 「発見しています・・・・発見しています・・・・発見しています・・・・・」と繰り返される。この「発見しています・・・・」という声が、僕を暗示にかけてくれるようで、なかなかいい。実は「発券しています」という意味だろうが、盛り上がっている僕には「発見しています」と聞こえるのである。

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実際のところ、乗り物ではいちいち些細な発見が多い。
たとえば、新幹線の座席はすべて同じ方向(前方)を向いていて、何の不思議も感じずに僕はそこに着席していた。
とろこが座席表をみているうちに、へんなことに気づいた・・・・実は新幹線の車両はUターンができない。車両は納入されてからというものずっと同じ向きで往復しているわけだ。

つまり、客席は折り返し駅で作業者が毎回座席の向きを変更していることになる。ということは、全席後ろ向きに設定した新幹線というのも(リクエスト次第では)十分あり得るわけで、景色が前へと流れてゆく空間は、これはこれでけっこう酔うだろうが、その体験はかなりそそられるぞ、と思うわけ。

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実はアメリカで国内線飛行機には、最前列がなぜか「後ろ向き座席」になっているものがある。通常の「前向き座席」では気づくことが少ないが、離陸上昇時の飛行機の機体はかなりの上向きになる。最前列の後ろ向き座席に乗ると、シートベルトに下腹部を支えられる形で、全乗客の顔と、機内全体を高所から見下ろす格好になるわけで、これがかなりの恐怖だ。後楽園の海賊船アトラクションに似ている。

遊園地のアトラクションと旅客機ではどちらが安全なのか、いまの時代よくわからないけれど、この「後ろ向き席つき旅客機」にあたった人はけっこうなスリルを味うことができる。

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と、ま、どうでもいいことなんだけど、新幹線チケットを買うときに「発見しています・・・」と暗示にかけられていると、新幹線に乗ることが、ちょっとしたアトラクションに思えて楽しいのである。

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新参ゲームメーカーの船出

シーマン2のセールスがいまひとつだったのは、発売元のセガのせいでなく、開発者である僕ら、いや、責任者である僕のせいだと思っている。

だから、セガには借りがあるわけで、「じゃ、起死回生の新作をもう一本やらせてください」というのも筋じゃない。セガはどうやら台所がいろいろと大変そうなのだ。

自分らでできることでどうやって借りを返そうか?あれこれ考えて、自分たちでメーカーをすることにした。セガには流通をお願いすることにした。他社流通より条件がいい、というわけではないが、人間のつながりというのはそういうものだ。これならばセガが開発リスクを追う必要はないし、売れるだけ多少なりとも利益還元できる。

デジトイズは、6月29日に「ザ・タワーDS」を皮切りに、インデペンデントのメーカーとしての船出をする。オリジナリティーの高いタイトルを年間4本目標に「発売」を計画している。流通は当面はセガでいこうと考えている。

すべてを自分たちでということは、つまり資金繰り、宣伝、品質精査、製造、パッケージ、販売・販促、なにからなにまで自分たちで手配するということ。これは口でいうよりも大変だけれども、こんなに楽しい時期はない。自分たちののれんを作ってゆくというのは、それくらいやりがいがあるのだ。「メーカーをつくる」という究極のゲームメイキングには業界の真の姿が見えてくる。この「会社のメイキング」という突拍子もないメイキング物語は、週間ファミ通で数回で連載してくれることになりそうだ。

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個人的には、新作の企画もどんどんと浮かんできて、それらは、とてもシンプルだけれど骨太で、それでもそれらをそのまま完成までこぎつけるには、相当な山があるだろう。だが、この感覚というのは自分の未来を自分で舵取りしている感触である。エンジンがフル回転に近づいてきた社員の顔をみるたびに、自分にもアドレナリンがすこしづつ分泌されているのがわかる。

開発責任者の砂塚氏が「プログラマーが何人いても足りない」という。
創業というのはそういうものだ。

転職をかんがえているプログラマーの人、毎日に飽きたというゲーム開発の人、まだまだ小さい、けれどこのあたらしい船をどうか見に来てほしい。そして一緒に参加してほしい。

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実は

前回のブログ表現が意味深だったせいで、知人や読者の方から、連絡を複数もらった。心配した妻が、出先の携帯までメールを送ってきた。ストラスブルグでとったモノクロのキリストの写真が余計な不安を煽ったようだ。

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実は金銭系のちょっとした件が発端となり、年下の友人から絶縁状のようなメールをもらうことになった。

とても残念なのだが、自分が正しいと信じることを伝えたことが原因である。いたしかたないと思っている。伝えたことは正しいと信じているので余計つらい。もし間違っていたら、あやまれるぶん楽だ。相容れない状況に無力感だけが残る。それ以来の数日間、めげてメールを開くことができなかった。

このやるせない思いの中、たのしい思い出がたくさんあるその人物とはまたあえるかもしれないし、もうあえないかもしれない、その思いをこめての個人的なブログメッセージであった。

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自分の信念を曲げてまで優先させる人間関係の輪というものが、人には、やはりあるんだろうか?この年齢になってもなお、自分の過度の性分を、もてあますことがある・・・・。

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さようなら

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とてもとても残念です・・・。

またあう日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

それまで、さようなら。

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僕という人間・・・

自宅マンションのエレベーター室の一面が鏡になっていて、帰宅するといやが上でも自分の顔をまじまじと見てしまう。

最近体におきている急激な変化に気づいているのだけど、それは前頭葉部における白髪の急増だ。 ま、同窓会でたまに会う旧友たちとくらべると変化が少ない方だとたかをくくっていたが、ここ数ヶ月の老化現象は、そのうぬぼれに冷や水をくらわしている。

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「らも」というタイトルの書籍を今日から読みはじめた。故中島らも氏の奥様が書いたらも氏の、というよりご夫婦の自伝本だ。

アル中でヤク中の天才詩人中島らもを面白がってみてたけど、奥様はちゃんとした人だったんですね。いろいろなことが意外だ。しかも文章がうまいな。書店では関係者が書いたタレント本のように見えたけど表紙のモノクロ写真が気に入ったのでつい買った。で読み始めたら没頭してしまった。

そもそも比べること自体が非常におこがましいのだが、照れずに書くならば、中島らも氏とは幼少期の生い立ちがやけに似ているなぁ。それは家庭環境や母親の性格とそのしつけ、受験校や兄が歯科医なありもそうなんだけど、らも氏の本名が裕之(ゆうし)ということ(僕の本名は「裕」)にはすこしびっくりした。

しかし、似ている点が多いわりには、僕はずいぶんと中途半端でちゃちい人生を送っているなぁ・・とか、もっともっと冒険的な人生を夢想していたなぁ・・・(過去形)とか比べてしまう。若き日にいずれ訪れるであろうと期待していた「青春」と、どこかですれ違ってしまったことを痛感しつつ、日中は今晩から何回かBSで再放映が決まっている、例の番組(NHK)のことを考えてた。

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前にも書いたが、例の番組のドラマ部で描かれている少年は、演出家の創作世界の人物であって、僕では、ない。奇妙なエピソードを含めて。

だけれど、どれひとつ「正しいくない」というつもりもなくて、あるすればこのなんとも中途半端な感じ、だろうか?

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ちょうど今日、むかしむかしに勤務していたリクルートという会社の社内報の取材があった。取材中に、これまた中途半端だったサラリーマン時代のことを思い出しながらふと気づいた。この時期の思い出は僕の中で、まるでモラトリアム(死語?)の悶々とした匂いを湛えていて、われながらとてもとても社会人という自意識があった痕跡がないのであるよ。給料もらいながらまるで社会人研修を受けていたような、そんな感覚なのである。

脱サラしてちょうど15年、じゃ、いったい僕はいつ社会人になったんだろう?会社の資金繰り地獄を抜けたときだろうか?

いや、もしかしたらまだモラトリアム(死語??)の途中かもしれないぞ。 冷静に考えるとたしかにその可能性は低くはない。本当に自分がやりたいことは、達成はおろか見つかっているとはいい難いし、それがある気もするが、朦朧と自分の外のどこかにふわふわ遊泳しているだけという気がするし。

すこしづつ自分に迫っている老いの予兆、たとえばエレベーターの中で見る前頭葉の大量な白髪などが、「いまさら冒険なんてやめとけ」と無難な選択肢を訴えているようにも思える。

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僕はちゃちっぽい人間だ。占いをする実印屋にもいわれた。資源を使って出版した本だってたいしたことないし。そういう自分に気づいないかというと逆でむしろそれをもてあますことだってある。ゲーム業界などという未開な分野に身をおいているからそれが露呈していないだけで、音楽界や文芸界や役者の世界に身をおく友人たちと比べられたらひとたまりもない。数億かけたゲームだって、一冊の本に勝てない実情があるわけだし。

法的には結婚できる年齢の娘に、よき父としてこのまま無難に人生を軟着陸させるのが果たしていい人生なのだろうか?それとも、虫取り網を片手にこの年齢から浮遊する物体にもう一波乱突入してゆくのが充実なのだろうか?

「いつまでも女々しいこといってんじゃねえよ!」
せめて勝新太郎みたいなおっさんに、そういって2-3発なぐられてぇな。

しかし実際は誰からも催促されないまま、えらそうなゴールドカードが入った財布とともにちゃちぃ自分の未来は一日づつ硬化している・・・・・。