ソフトバンクのCMは当初から2種類のシリーズがある。
ひとつはキャメロン・ディアスやブラピが登場するもの。もうひとつは白い犬と家族が登場するもの。どちらも誰もが知っているCMだ。
じゃ、なんで全然毛色の違う二種類のCMが並行して放映され続けているのか?
広告も人工物である以上、かならず存在理由があるはずだ・・・では、それはなんだ?
そう聞いてパッと答えられる人は、洞察に長けた人だ。あるいは業界の人だ。多くの人は「なんとなく」で過ごしてしまっているのではないだろうか?
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言葉にしないとわからない、というテーマは、このブログの過去最多のテーマである。模糊とした存在をゲームの題材にしようとする僕にとって最大のテーマでもある。
こういうひねくれた行為は、もしかしたら変人特有の奇行だろうか?だとしたらそれは、僕のような人間のサガかもしれない。
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言葉になっていないものと、言葉になっているものの違いというのは、ただ印象として記憶されているか、あるいは論理的に説明可能であるかの違いだ。前者は、においのようなもの、後者はそれが分子記号化された状態のもの。においと違って能動的に活用できる。
人間は、この「印象というあいまいな記憶」を、記録可能にせんと、たくさんの記号をつくりだしてきたんだと思う。そしてひとたび記号になったとたん、それらは応用可能な「知恵」となる。
たとえば、実家の一階と二階をつなぐ階段の段数。
その段数を数えて知っている人は多くはない。ほとんどの人は、実家の階段の数をしらないけれど、もしそれが一段減ったとしたらかならず気づくものだ。
「あれ?何か変だぞ」とね。潜在意識は覚えているものだ。
しかし、その異変の原因が何なのか、それをどうすれは改善できるのか、については、わからない。原因が特定できないというのは、なにも手だてが打てない、ということだ。説得性のない、非科学的な話として終始してしまう。幽霊と同じで、もともと異変など存在しなかったといわれても反論できない。
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ソフトバンクが大金をかけて2つのCMラインを継続していることにちょっとした疑問を覚えたのはいつだろう?
だがそれを 「外タレ編はソフトバンク携帯機のイメージアップ、一方の、犬と家族編は料金体系の広告なんだよ」といわれれば、話は思考に刻まれることになる。「うちの会社のCMではそれを応用してみようじゃないか」、となる。
わかっていたような気がしても言葉にされないままだと、「もやもやとしたまま」である。言葉にされれば、「なるほど」となる。そしてノウハウとして利用可能な知恵となる。
そのためにまず必要なこと、それはちょっとした疑問を感じとるその感性と、その理由を探ろうとするひねくれ心、だと思う。
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