斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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これもプライバシー保護系ですかね?

最近、なにかのついでにふと思うこと、その一つがタクシーの領収書に時間の打刻がなくなったこと。
いままで何回かそうおもったことがあるから、かれこれ3-4年くらい前からではないかと推測するが、本当はいつからなのか、どうしてなのかの事実関係はまったくわからない。
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今日とてもラッキーだった。タクシーに置き忘れたカメラが戻ってきた。
戻ってきたので、るんるん気分で書いているのが今日のブログである。そのぶん、たぶんつまらない。
しかし忘れ物の所在確認できるまでの19分間ほど、肝が冷えた。
なんたって迷いにまよった挙げ句買ったライカD-LUX4(=つまりパナソニック製だよ)が、気がつくと手の中にないのだから。
うろたえるように周囲をみて、そして絶望的な気持ちになる。
そういえば降車する直前、どうでもいい電話にかかりきりだったっけ・・・。その相手をうらめしく思い出しながら「ああ、もうだめだぁ・・」とため息をつく、そしてしげしげと財布にはいっているはずの領収書を取り出す。
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財布からは今日の日付の領収書が二枚でてきた。
「どっちが今のタクシーのだ?」
あせる気持ちを抑えて二枚をしげしげと見る。かつては打刻時間でそれが判明したのだが、そういえば最近のタクシー領収書にはそれがない。金額も一緒だ。
しかも夜道というのは細かい字が本当に時が読みづらい。

なんで打刻してねえんだ?という疑問とともに焦るばかりの僕がいる。これもプライバシー保護系か? タクシーの忘れ物は次の乗客が乗るまでが勝負だから数分の遅れが命とりとなる。ちなみに実車したドライバーさんは客がおりるまで着信携帯をぜったいにとらないしね。

しかし日本はいい国だ。いや次の客がいなかったのは不景気のおかげかな。
待ち合わせの場所にメーターを入れずにきてくれた運転手さん、なんとお礼をしていいやら。(チップはずんだぜ)

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ということで、今日の話にはオチがありません。本当に申し訳ない。
あえていうなら、このカメラ、デザインがあまりにいいのでパナのLUMIXじゃなく高いライカバージョンを買ってしまったこと、そして本体以上に欲しかった専用レザーケースのブラウンがまったく手に入らないことを付加して今日という日を終わろう。

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Y氏の災難

では今回は前回の予告通り、A氏が提供してくれた写真による、Y氏初のぎっくり腰救出物語をドキュメントで紹介する。
ぎっくり腰というものが、どれだけの苦痛を伴うものか、写真で察していただけるのではと思う。
(関係者に許諾の上掲載しています)

Koshi1
六本木で開店準備をするY君は、ソファに乗った姿勢のまま動けなくなる。

Koshi2_3
この姿勢のまま時間が経過し、救急隊員が到着

Koshi3
ストレッチャーに乗ることができず、ストレッチャーごとY君に巻き付ける。

Koshi4
なんとか運搬可能に・・。

Koshi5
地下階からそのままエレベーターに・・。笑っているのは同僚スタッフ


Koshi6
無事地上に脱出成功。救急車で運搬開始。


なったことのない方はわからないだろうが、ぎっくり腰というのはある種の発作状態のようなものでくしゃみをしても激痛が火柱のように体を貫く。安静にして痛みが引くのを待つしかないが、日常行動によっていちいち痛みが復活するから直りが長引く。

追伸)
今日の時点でA氏が自宅療養しているY君に「おむつしてんの?」と確認したところ「いえ、しびんです」という回答があったらしい。経験的にいうと、ぎっくり腰にウォシュレットは欠かせない。A氏によるとY君は一人暮らしのためトイレにいけず、空腹状態のまま便意と闘っているとのこと。「実名で書いてほしい」というA氏のリクエストには人道的配慮からお断りしておいた。
Y君の一日も早い回復を心よりお祈り申し上げる。

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言われないと存在しないもの  ~ぎっくり腰番外編~

全日本的にぎっくり腰の季節である。
ご存知の方も多いだろうが、ぎっくり腰というのは寒さによる筋肉硬直と密接な関係がある。
かくいう僕も、先月はさんざんな思いをした。
数々の予定をキャンセルするのになんと説明すればいいか、それが難しいのがこのぎっくり腰である。「病気」でも「けが」でもなく、あえていうなら「状態」なのかもしれない。その証拠に、ぎっくり腰にはまっとうな治療法が、存在しない。
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その特徴は「命に別状はまったくない」こと。虫歯も風邪も切り傷も放置すれば致命傷となるが、ぎっくり腰はそうではないから、「いたい、いたい」と本人が大声で苦しむ姿を周囲はただ傍観するしかない。それがぎっくり腰に、ちょっとしたコミカルさを与えてしまっているといえなくもない。自分がなったときにはこの上ない苦痛なのだが、他人がなった姿をみると、不謹慎ながらつい笑ってしまうのである。

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最近、無呼吸症候群、が急増しているという。
これまで「突然死」として片付けられてきた睡眠中の死亡事故の多くは、この無呼吸症候群による心不全ではないかといわれている。
そう考えると、知人や親戚縁者の突然死の中にも「そういえば」と思い当たるものが少なくない。
無呼吸とは要するに睡眠中に舌が降りて気管を塞いでしまう状態のことで、いわゆる「いびき」の延長上にある。食生活の変化に伴うあごの退化で、欧米の子供に急増しているとニュース番組でみたことがある。無呼吸状態は続くと当然死に至るわけで、いびきはかなり危険なその徴候といえる。
もし死との関連性を指摘されなかったら「いびき」なんてもんはただ笑いを誘う身体的特徴ですまされていたにちかいない。でもこれから「いびき」は笑えない要注意チェック項目になってゆくのだろう。

もしかしたらぎっくり腰も将来、笑えない、とんでもないこととの関連性が指摘されないとも限らない。ものごとの見え方というのは言葉ひとつでがらりと変わってしまうものだ。
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ついでといっては失礼なんだけど、飲食店に勤務するA氏が、開店準備中におきた同僚のぎっくり腰事件の一部始終を写真でルポしてくれた。笑ってはいけないのだけど、ぎっくり腰というのがどれだけ大変なものか、あまりにわかりやすくしかも笑える写真ルポだったので、次回に許可を得て紹介することにしよう・・・。

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言われないと存在しないもの  ~その3~

「ちょっといいですか?」
市街地の路上でそう声がけして、「はい、なにか?」と止まってくれる通行人なんて、いまどき皆無である。
要するに、路上で声をかける=関わってはいけないこと、という公式が都会人の頭の中には出来上がっている。決してそんな悪意がないとわかっているのはこちらだけの話。わかってもらいたい一心で何度も声がけしようものなら「大声出しますよ!!」とか「警察呼びますよ」とか、あるいは極端に険悪な無視をされたりと、声をかけた側が逆にビビってしまうことが起きる、それも都会の特徴だ。

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ところで僕は、オフィスを出たらタバコを一服することにしている。しかしなぜかそういう気分のいい日にかぎってライターを持っていないことが多い。なもんだから、そういう時は喫煙歩行をしている人に火を借りるしかない。しばらく路上に立ってターゲット(=火を持っている人)を探すことになる。
で、ターゲットを発見すると、すたすたと近寄って声をかける。だが僕のようにいい年の、しかも男の場合、この「ちょっといいですか?」は、禁じ手だ。うっかりそう声をかけて邪険にされると、こちらの気分まで堕ちてくるし。
じゃどうしているかというと、「ちょっといいですか?」という挨拶句を省いて、いきなり本題にはいらさせていただく。つまり「火を貸してくださいませんか?」と、唐突に声がけするのだ。
このときターゲットとなる人の反応は、というと、あやしい人物(=僕)が近づく気配に感づき早足に通りすぎようとする。そして僕の声を聞いた一瞬の後、「あ、はいはい」と立ち止まってくれる。
この作戦で対応してくれなかった例は、今のところ一度もない。中には丁寧に、ライターをくれる人までいる。
つまり、都会の人は冷たい、のではない。ただ、最初の一言だけで判断してしまうだけだ。
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人間というのは、理解できることには寛容になるものだ。とくに喫煙といういまやマイノリティーの嗜好には、同胞意識が働いてさらに顕著である。「都会人が他人に冷たい」といわれるが、その迷信の原因の多くは、これらによる誤解だと思う。
都会の路上というのは、最初の一言でしか意図を伝えるチャンスがないという、いわば特殊な状況による誤解。ま、都会人論うんぬんは今日はおいておき、この「最初の一言でしか伝えるチャンスがない」というのが、今日の話。

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世の中にはさまざまな話法がある。その人固有の挨拶句や状況表現や婉曲表現があって、それらを織り交ぜながら人は話をする。聞く側もそれと同じだけいろいろだから、実は要点をとりちがえて会話が成立している二者というのが、社内だけをみててもとても多い。
「あなたの言いたいことって、一言でいうと何ですか?」
そう切り返されるケースというのは、だから幸運なケースだ。たいていの聞き手というのは、よくわからない話に対しては、「わかりました」と言う常套句で答えてしまうだけに。

若手芸人と同じで、わかってほしい時ほど、相手との間には温度差があるものだ。そういう時にかぎって、余計な説明をしてしまう。で、相手の忍耐のキャパティーを超えてしまう。
たとえば、多忙な役員へのプレゼンテーションしかり、大規模ゲームの冒頭の説明ムーピーしかり、「理解してほしい一心」が話を膨らませ、論点を濁す

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すぐれたマニュアルほどシンプルなものだ。それは頭でわかっているけれど、実践することは難しい。新しいゲームのマニュアルをつくるときに、いつも「番言いたいこと、なんだっけ?」と自問自答する。そしてたいせつなことが膨大な贅肉と化していることに気づく。
いや、実は、大切なことが贅肉に埋もれているときはまだいい。
得てしてそういう時、悪いのはマニュアルではない。一言でいえないゲームのコンセプトが悪いのだ。
マニュアルを書く段になってコンセプトが贅肉そのものであることに気づくのが最悪なのである。
だから企画書を書く時点から、なるだけCMのコピーを同時に考えるようにしている。CMの15秒というまはちゅうど、路上で火を借りるときの時間と同じなのだ。
「相手は最初の一言だけしか聞いてくれないぞ」と。
ここでいう相手とは、むろん、任天堂など業界の人の意味ではない。商品を買ってほしい、路上を歩いている通行人のことである。


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言われないと存在しないもの  ~その2~

ソフトバンクのCMは当初から2種類のシリーズがある。
ひとつはキャメロン・ディアスやブラピが登場するもの。もうひとつは白い犬と家族が登場するもの。どちらも誰もが知っているCMだ。

じゃ、なんで全然毛色の違う二種類のCMが並行して放映され続けているのか?
広告も人工物である以上、かならず存在理由があるはずだ・・・では、それはなんだ?
そう聞いてパッと答えられる人は、洞察に長けた人だ。あるいは業界の人だ。多くの人は「なんとなく」で過ごしてしまっているのではないだろうか?

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言葉にしないとわからない、というテーマは、このブログの過去最多のテーマである。模糊とした存在をゲームの題材にしようとする僕にとって最大のテーマでもある。
こういうひねくれた行為は、もしかしたら変人特有の奇行だろうか?だとしたらそれは、僕のような人間のサガかもしれない。

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言葉になっていないものと、言葉になっているものの違いというのは、ただ印象として記憶されているか、あるいは論理的に説明可能であるかの違いだ。前者は、においのようなもの、後者はそれが分子記号化された状態のもの。においと違って能動的に活用できる。

人間は、この「印象というあいまいな記憶」を、記録可能にせんと、たくさんの記号をつくりだしてきたんだと思う。そしてひとたび記号になったとたん、それらは応用可能な「知恵」となる。

たとえば、実家の一階と二階をつなぐ階段の段数。
その段数を数えて知っている人は多くはない。ほとんどの人は、実家の階段の数をしらないけれど、もしそれが一段減ったとしたらかならず気づくものだ。
「あれ?何か変だぞ」とね。潜在意識は覚えているものだ。

しかし、その異変の原因が何なのか、それをどうすれは改善できるのか、については、わからない。原因が特定できないというのは、なにも手だてが打てない、ということだ。説得性のない、非科学的な話として終始してしまう。幽霊と同じで、もともと異変など存在しなかったといわれても反論できない。

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ソフトバンクが大金をかけて2つのCMラインを継続していることにちょっとした疑問を覚えたのはいつだろう?

だがそれを 「外タレ編はソフトバンク携帯機のイメージアップ、一方の、犬と家族編は料金体系の広告なんだよ」といわれれば、話は思考に刻まれることになる。「うちの会社のCMではそれを応用してみようじゃないか」、となる。

わかっていたような気がしても言葉にされないままだと、「もやもやとしたまま」である。言葉にされれば、「なるほど」となる。そしてノウハウとして利用可能な知恵となる。

そのためにまず必要なこと、それはちょっとした疑問を感じとるその感性と、その理由を探ろうとするひねくれ心、だと思う。

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言われないと存在しないもの ~その1~

シミュレーションゲームの題材を選ぶことは、人が気付きもしなかったようなものごとの因果関係に光をあてることだと思う。

因果関係というのは不思議なもので、いわないと気付かないものだ。むろん、だから見つけたものはユニークな新機軸ゲームになるわけだが、そもそも実在する「関係」というのはモノじゃない。つまり目には見えない。見えないものを発見するというのは観察者の洞察力に依存してくる。

だからシミュレーションゲームの新作づくりというのは、正体がはっきりしないものを発見するところから始まる。らしきものを発見したら、そこに名前を付けることから長い企画の旅は始まる。

この目に見えない、よくわからないものを関係者に言葉で説明するというのが、企画者の次の仕事だ。これは骨の折れる仕事だ。ゲームの肝となる因果関係は、けっきょく画面には表示されないものばかりだから、明快な対象物を欲してうずうずしているプログラマーにもデザイナーにも、忍耐力を要求する地道な作業となる。ドキュメントに記述しにくい内容だが、書かないとどうにも前に進まない。

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言わないと、だれも存在に気付かないモノというのがある。慣用句では「言葉にしないとわからないもの」ともいう。

たとえばいまでは「空気」という名で知られているもの。
空気を発見した人、というのは、かなりえらい。彼は、そこになにかが存在するような気がしてならない、という直感から始まり、そしてそれがどんなものなのか、現象面からひたすらリアセンブリするように調査を繰替えしていったにちがいない。そして何もない空間を指さして「ここになにかがある」と人々を説いていったにちがいない。

そして僕らはいま空気の存在を信じて疑わない。が、よく考えれば一度も見たことがないわけで、もし人から「空気」という名前を教えてもらっていなかったとしたら、なにもないと思い込んでいるだろう。「言われないと存在しないもの」とはそういうものだ。

僕がシミュレーションにほれ込んでいるのは、企画者にそんな「発見力」が大きく求められるからだと思う。

つづく

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今日発売のニンテンドーDSiについて

今日から発売されるNintendo DSiはどのような反応で市場から受け入れられるのだろうか?

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発売の前日に届いた今回のDS、いざ触ってみると、予想外に「これまでと違うDS」だ感じる。このあたりは、広告ではあまり語られていないところだと思う。

すでに公開されていたカタログスペック、カメラ搭載であることや、画面がやや大きく明るくなったこと、CPUが倍になった、という類はこのさい脇におくことにする。むしろパソコンでいうところの、いわゆるOSにあたる基幹システムの思想がぜんぜん違う点が特筆すべきところ。一言でいうと、今回のDSiは、携帯型の「自分情報の蓄積マシン」とでもいいましょうか・・・。

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今のPCと同様、記憶領域の拡大にともない、システムは拡張型に変貌した。いいかえるとDSは、「プレイマシン」から「編集マシン」になった印象。カメラも声も自分で「編集」し「保管」できるあたりは体験すればわかると思うが、かなりの範囲でカスタマイズ可能となり、ハードはこれまでとは比べ物にらないほどの個人情報を蓄える。

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DSiの場合、これからダウンロード提供されるであろうアプリのためのスペースがトップメニューに配置され、「インストールする」ことにかなりの重点がおかれる設計になっている。OSそのものの魅力が増え、そのぶん1本のゲームアプリが占める比率が低くなるつくりともいえる。僕も、ゲームをひとつもプレイしていないのに、数時間このDSiを触り続けても飽きないのである。アプリを買わずハード単体でずっと遊んでられるゲーム機なんて、ルール違反(!)である。最初からインストールされているカメラ日記ソフトがいい例だろう。

これらカスタマイズツールを日々利用する人は、どこかにDSi忘れてきたら大変なことになる。そのうち「電話帳お預かりサービス」みたいなものも出てくるに違いない。

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Iアプリ、あるいはiPhoneアプリがそうだったように、ダウンロード型になるとソフトは大きく変化してゆくものだ。それらはたとえば

1.ソフトの規模と価格が小さくなる。(低価格化)
2.非ゲームの比率が増えてくる(便利情報系アプリ)
3.マーケティングの方法が変わる(テレビCMが減り、店頭プロモーションが無意味になる)
4.アプリが継続進化型となる。

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これまでのROM製造のライセンス料徴収という任天堂ビジネスモデル、がひとつのアプリの進化を妨げてきた。わかりやすくいうとROMコストというリスクのせいで、ちょっとした機能追加版を提供することを困難にしてきた。

ネットワーク提供という柔軟な流通チャネルにハードウェアが対応することでソフトが追加拡張型になるということは、ハリウッド型の巨大なソフトは減り、連続テレビドラマのように分納リリース型になってゆくのだろう。

ネット環境がどこまで一般に普及するかはわからない。ただ、この携帯ネット端末がかつてのDSのように普及したならば、これまでの大手メーカーは大きな方向変換を余儀なくされることになるだろう。