橋本忍脚本の「砂の器」が昭和49年制作というから、34年前の作品ということになる。
渋谷文化会館には、三つの映画館があって、中学生の僕は渋谷に出るといつも帰宅時にはこのバス停から、三つ並ぶ映画の看板を眺めていた。たぶん「砂の器」を知ったのもその頃だった。話題になっていることは知っていたけど、子供の僕にとってどんな映画なのかよくわからず、実際に見たのはDVDになってから。(同じスタッフの手による松竹・横溝正史映画の八墓村は映画館でみましたが)
そして昨日、デジタルリマスター版と書かれた「砂の器」を買った。通常版と併せると二枚目ということになるが、昭和の日本の風景(制作時ということになるが)をきれいな映像で見たい、という目的で再度買った次第である。
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年齢なども関係あるのかもしれないが、映画というのは、何回もみると、いろいろな発見がある。
この「砂の器」にも、観る者を押し流してしまう強さがあって、ついぞ殺人事件に端を発する人間ドラマに目が行き、推理モノとしてのなんとなくの違和感が残ったままになっていた。で、今回のリマスター版を機に、冷静に何度も物語をチェックしてわかったんだけど、この映画にはバグがあった、という話。
バグといっても、些細な撮影上のミスとか粗(あら)とか、あるいは、「バックトゥーザフューチャー」でタイムマシンを最初に発明したのは結局誰なんだ?などというSF設定への無寛容な指摘とかじゃなく、容疑者が特定できたのか、という推理モノでは本筋にあたる致命的な欠陥。
だから、これから松本清張の原作を読んでみようと思うんだが、昨年あたりに放映されていたテレビ版では解決されているんだろうか?(ま、橋本忍氏の脚本化手法に興味があってのことなので、他作品がどうであろうと実のところはあまり関係ないのですが)
もしご存じの方がいたら教えていただきたいのですが、何をきっかけに今西刑事は、千代吉の息子であるひでおが和賀英良と同一人物だと特定できたんだろう?
犯人の今日と、隠ぺいされたその子供時代をオーバーラップさせながら映画が進むので、観客はなぞ解きが行われる前から、この二者が同一人物だ、と刷り込まれる。失われた過去に目を向けているうちに、「そんな苦労があったのか」と感動してしまい、「でもなぜ捜査線上に彼が浮かんできたのでしょうか?」という、素朴で本質的な疑問を忘れてしまう・・・これも脚本の意図なんでしょうかね?
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エンターテイメントというのは、誰もが見覚えのあるような日常から始まり、でも絶対起こりえない非日常へと観客を導くのがお約束だ。非日常を日常とすげかえる展開をどれだけ自然に見せられるか、が制作者の腕の見せ所であって、そこを落とすと「無理があるよ、これ・・・」となる。
でも推理モノというのは、その意味で他のエンターテイメント作品よりひとつハンディーキャップが多い。それは「さて、どうやって証明する?」の部分だ。
同時期に流行った刑事コロンボがおもしろかったのは、きわめて論理的にそれらを証明して見せたこと。そのためには、設定上登場人物を少数に絞り、常に犯人をその中の一人と限定しなければならない。そうすることによって、事件を帰納的なパズルとして提示することに成功したコロンボは、いってみれば、数学の証明問題。観客も作者も持っている情報を等価にして、目の前で見事にマジックを解いてみせた。観客の常識の穴をフックとしているので「なるほど」と視聴者は唸る
日本の推理は、どういうわけか、それが帰納法ではなく演繹法だったりするわけで、観客が知らないような新しい事実が推測のプロセスでどんどんと出てくる。犯人の自供がクライマックスにあってそれが最大の根拠となる。「本人が認めるんならしょうがないか」とその時初めて探偵の辿ってきた推理が正当化されるわけで、つまり証明の美学ではなく推測の美学が見所となる。金田一先生もしかり。
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点と点をつなぐ大胆な仮説と、そこに浮上する意外なドラマ。当然のことながら点と点をつなぐのは犯人ではなく刑事の憶測であって、科学や論理では到達できない人間ならではの情がそこにある。こういう人間ドラマ性と、コロンボなどに象徴される論理的パズル性はひとつの作品内に同居できないものなのだろうか?
かつて「複眼の映像」という橋本氏の名著書について言及したことがあるが、なぜ「砂の器」で橋本氏は、この「犯人特定」というプロセスを割愛したのだろうか? あるいは原作そのものにその要因があるのか? など年末休みに興味深く調べてゆくことにしようとおもう。
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ということで、さっそくアマゾンで原作を発注しました。
映画作品として松竹の「砂の器」を、ぜひ見ることも併せてお勧めする。
はじめまして。いつも読ませていただいてます。
実は映画版は未見なのですが、中居正広主演のテレビ版では、入れ替わりの設定が違い、
(時代設定を現代にしているため、戦争というアイテムを使えないのです)
今西が和賀の出生地・長崎へと向かい戸籍を調べると、和賀の両親は和賀が10歳の時に集中豪雨の水害で亡くなっていたこと、その水害で生き残ったのは和賀だけであること、和賀と同じ年の施設の子供・服部武志が行方不明であることを知り、当時のことを知る園長先生に「武志の腕に傷があったか」と聞くと、先生は「そういえば、あったような…」
(和賀には腕に傷がある設定)
と答えることにより、入れ替わったことに気づくのです。
と言う形で辻褄はあっていますが、映画版はうまくそのプロセスを省略してるんでしょうか?
投稿情報: グリ | 2008/12/15 21:30
グリさん、情報ありがとうございます。
僕はテレビを見ていないのですが、ひとつ質問です。
今西が、「和賀があやしい」と、つまり単なる有名人を容疑者として目をつけた、その根拠のようなものはテレビドラマ版では描かれていましたか?
映画ではかなり曖昧でした。もしかしたら必要なシーンがカットされていたのかもしれませんが、こればかりはわかりませんでした。
投稿情報: 斉藤 | 2008/12/16 02:47
自分もちょっと記憶が曖昧になっているので、テレビ版のサイトを見直しましたが、
事件当日、被害者が白いセーターの男と会っていたという目撃証言あり→汽車から紙吹雪をまく女のコラムを新聞で発見→その女を調べ、知り合いの男に事情聴取→取り調べで白いセーターの話をすると、その知り合いの男は和賀の名前を出した…
という流れがあり、さらに映画版にもあります、生前の三木の足取りを追っていくと、三木が急に東京へ行くことを決める前に立ち寄った伊勢の映画館に和賀が写った写真があり、そこで確信を得るという結果になっています。
おそらく映画版では、その女を調べ、知り合いの男に事情聴取→取り調べで白いセーターの話をすると、その知り合いの男は和賀の名前を出した…という描写が無く、
(テレビ版オリジナルの展開かも知れません)
この映画館の写真だけで三木と和賀の繋がりを確信した、という描写だけなのではと思います。
また、入れ替わりの件ですが、映画版を紹介したサイトでは
三木が千代吉と秀夫を保護したことを聞いたあと、
今西は和賀英良の戸籍調査で大阪へ飛ぶ。昭和20年、自転車屋だった和賀の両親は空襲で死んでいた。そして、和賀は実子ではなく、奉公人だったのだ。空襲で戸籍簿は焼け、戸籍は戦後、本人の申し立てで作られていたのである。
この流れになりますが、確かにこれだけでは秀夫=和賀である決定的な証拠にはなりませんね。
時間の都合で入れ替わりの謎解きの描写、和賀に容疑を向ける描写は割愛されてしまったのでしょうか?
それとも、原作でもそのシークエンスはなく、テレビ版で初めて描かれたのでしょうか。
投稿情報: グリ | 2008/12/19 00:40
はじめまして。ほぼ日からここに飛んできてずっと読ませていただいております。
僕は逆に原作だけしか読んでいませんが、和賀の過去に関する言及は、ラストに少し・・・だっという記憶があります。
その分、刑事が謎を解いていく部分はかなり納得できました。
映画にするにあたっては、ドラマを作るため、「過去」の部分をふくらませ、原作にある論理的な部分を少しカットする、というプロセスだったのかもしれないと思いました。
つたないコメントで申し訳ありません。
投稿情報: YATO | 2008/12/19 09:41
和賀英良が愛人のアパートのドアに残した指紋と凶器の石から採取された指紋が一致したと理解できるカットが一瞬ですがありますね。
投稿情報: JMI | 2010/01/12 00:39