岩田さん、ありがとうございました。そして、さようなら。
今日、訃報が発表になった任天堂の岩田社長さん・・亡くなられてしまったんですね・・・。
僕が知りあった頃の岩田さんは、1996年頃のことですから、スーツを着ていない岩田さんでした。甲府のHAL研にてお会いしました。岩田さんは、ゲーム業界ではめずらしくいつもMac(PowerBook)を携えてしました。そこになんとなく(たぶんお互いに)、好きなものが一緒ですね、みたいな連帯感を感じてました。その翌年あたり、僕ですら買うのをためらっていたアップルG3PowerBookを携えているのを見て「この人は本気でマック好きなんだ」と思ったのを覚えてます。
仕事をご一緒するのは少し経ってからの、当時、「シーマン」というゲームが一斉を風靡していたころ、のことです。このころ、僕らは続編の企画とか契約とか取材とかなんやらで、ひどく忙しくしていました。
そんな中、「会えないか」と打診してきてくれた岩田さんは、僕が寝泊まりするために借りていた都内のマンションにまでいらしてくださったのでした。
お会いになったことがある人はご存知でしょうが、岩田さんというのは、なぜか安心感というか幸せな気分にさせるオーラを常に出している方です。なので一緒にいると不思議に、やけに気持ちがいい。それが仕事の話であってもそうなんです。 その日の岩田さんは、(いつものカジュアルな服装ではなく着慣れぬ様子な)ジャケットを着ておられました。そしてすこし照れ臭そうに「いまこんなことやってるんですよ」と名刺を差し出されました。見ると、任天堂の社長室付きの肩書きを持たれているではありませんか。HAL研(岩田さんがゲーム業界にはいったのはこの会社があったからです)から距離を置き、任天堂の手伝いをするようになったとのこと。(HAL研は任天堂さんの傘下にありました)
この日、岩田さんがおみえになったのは、「任天堂プラットフォームとして、これまでとは違う、あたらしい分野のゲームをとりいれてゆきたい、そういう特命の仕事をしている」といった趣旨の話でした。そして「シーマンのようなものがそれだっりする」ともおっしゃってました。いま思うと、次期経営陣になるための準備業務のはじめの一歩だったのかもしれませんね。むろんそのときの岩田さんはそんなことまで考えているとは思えない風でしたが。
そもそも「シーマン」なんてゲームは、業界的にいえば、企画としてはゲリラみたいなものでしたから、誰一人としてヒットするとは思っていないものでしたが、任天堂の宮本さん(と手塚さん)だけはいろいろと相談させていただいていたので企画段階からお見せし、かなり面白がってくれていた経緯があります。実際ドリームキャスト向けに開発が決まるまで、任天堂さんのハードでやるという話も断続的にありました。そういう経緯もあって岩田さんも注目してくれていたのでしょう。発売直後から予想外の売り切れが続き、怒涛のようにパブが続きましたから、岩田さんとしても「こういうヘンテコなゲームをつくるクリエーターは仲間にしておこう」ということだったんだと思います。
⚫️実験させていただいたこと
それをきっかけに、任天堂さんとは実にたくさんの「実験」をご一緒しました。実りはあまり多くなかったけど(笑)、たくさんの「ヘンテコなもの」のプロトを作った。(DSではなく)ゲームボーイで"すれ違い通信もどき"の実験をいろいろしました。中学時代の通学時に、いつも同じ電車に乗る、名前も知らない女子学生に、告白する方法はないか? みたいな話をまじえてディスカッションした記憶があります、
写真はそんな当時の1ショットです。(ささっているボードは、社内開発途中の実験プログラムプロトタイプです。)
⚫️DSとすれ違い通信のこと
ニンテンドーDSが出る時もwiiがでるときも、まっさきにご連絡をくださり、自らデモをしてくださった。そして 「斎藤さんだったらどんなものつくりますか?」 と熱心に聞いてくる。実に人に対して丁寧な方でした。そして(ご自身もクリエーターですが)クリエーターに対してレスペクトを忘れない人でした。
DSの発売前に、開発会社向けのプレゼンを任天堂さんでサポート担当の方から受けた時のことです。 「ほぼ説明はすべておわりです。何がご質問はありますか?」 といわれ、 「ほぼというとなにかまだあるのですか?」 と聞きました。すると、 「あと一つ、新機能がありますが、それは岩田が直接斎藤さんにプレゼンしたいといっておりましたのでしぱらくお待ちください」 といわれお待ちしていると、岩田さんが社長室から降りてこられ、 「斎藤さん、あの時のすれ違い通信(この命名はありませんでしたが)、このDSで実装しましたよ」 と嬉しそうにデモしてくださった。こういう経験というのは一生になかなかできるものではありません。 僕はこの時代にこの業界にいたことで、稀有な経験を岩田さんにさせていただいた、とても幸運な人間といえると思います。
⚫️wiiコントローラー
wikiに載っている、私が任天堂さんに発表後のコントローラーにスピーカーを付けたほうがいいと提言したという話は、本当かと聞かれたら、本当です。京都のどこかの焼肉屋さんでの話です。岩田さんと宮本さんとの三人での話でした。でもこの話がすごいのは、(モックの写真をすでにプレス発表したあとの)あの時点で、過去に一度や二度は社内でも絶対にあったはずの、スピーカーをつけるなどという案件を、(大手メーカーに所属しているわけでもない僕ごときの主張で)、実際に図面レベルから変更してしまった岩田さんと宮本さんだと思っています。僕は、ただ口うるさい外野をやっていたにすぎない。
このときにかなり面白い話が応酬となりましたが、ここでは割愛します。
⚫️3DSのシーマン
ニンテンドー3DSがでるときに、「斎藤さん、シーマンをこれでやってくれませんか」と打診くださったのは、冒頭の1999年に、マンションを訪れてくださったときと同じ気持ちだったにちがいありません。僕らもこの仕事に着手したにはしたのですが、とてもややこしいことになってしまい、最後は僕の手を離れてしまった・・・そしてそれがきっかけで、それまでのように気軽に京都を訪れて、あたらしいアイデアについて「ああだこうだ」と交歓できる関係は途絶えた・・。あのときのあふれ出んばかりにクリエイティブな関係に戻るのには時間が必要だろうと決め付けてました。
よくないご病気のためしばし休養するという一報を聞いたのは、去年の初夏、移動中のタクシーの中でした。奇遇にもドラクエの堀井雄二さんとホリエモンこと堀江貴文さんという大物の方々と、三人で乗り合わせてたときのことなので強く記憶してます。
マスコミであなたをふたたび拝見したときは、「岩田さん、ついに復帰したんだ!?」と喜んでたのですが、神様はそうやすやすとは許してくれなかったんですね・・(任天堂の)手塚さんが、「直接アポをとられてみてはどうですか?」と言ってくださったのに、気が引けて連絡しませんでした。 そして躊躇しているうちについに岩田さんとはお会いできないまま、本当にすれ違っちゃったことを知りました。 こんな人間に、もしいま天国に通じる「すれ違い通信」があったら、いいのにな。そしたらすぐにそのDSを買って、いまお礼をいいたいです。いまさらムシのいい話ですよね。 僕がシーマンプロジェクトを離れるときに、書籍と一緒に岩田さんにお送りした手紙は、ちゃんと読んでいただけていたのだろうか?ずっとそれが気になってます。あと、大玉は、納期が遅れてタイミングを完全に逃しました。本当にごめんなさい。 他に言いたいことがたくさんあるんだろうけど、いきなりメディアで訃報を聞いても、いきなりすぎて、どうしていいのかよくわからないっす。
人生とはいつも後悔の連続です。
岩田さん、本当にお疲れ様でした。いろいろありがとうございました。僕は人のことをあまり尊敬しない者なのですが、岩田さんのことは本当に尊敬してました。いつも遠くから「すごいなぁ」と思ってました。
ありきたりの言葉になってしまうけど、ゆっくり休んでください。
残った僕は、人生というか、クリエーターとして絶望しかけていたんだけど、もういちど、チャレンジしみることにします。
岩田さん、たくさんのものを、ありがとうございました。