明日、自費で京都任天堂さんの営業会議にご挨拶にいってきます。
シーマンのときにもセガさんの販社を訪れてに同じことをしたのだけどさ、新作出すときは、頭下げて「このソフトをつくった者ですが、ひとつよろしくお願いします」と顔見せにいくのさ。スーツ着て。
「本当にお見えになるんですか?」と驚いていたのは任天堂のYさん。
「当たり前じゃないですか、人生かけてんだから!」
「ま、ま、そりゃそうでしょうけど、こんなこと初めての事なんで・・」
「僕は毎回やってますよ」
なかば押しかけにも似た挨拶である。
好きなものを作ろうとすると、いやというほど、やりたくないような仕事をしなければならないです。僕の毎日の9割5分はどうてもいいようなことに費やされている。本当に自分の手を使ってやれたらいいだろうな、と思う面白そうな仕事は残念なことにたいがい部下に振ることになる。
「君たちにあって僕にないもの、って何だと思う? 一つのことに集中できる『時間』、だよ。うらやましいとさえ思うことがある」 これ、最近の僕の口ぐせです。
資金繰りだとか、借り入れだとか、社長というのはていのいい雑用だ。うんざりするような仕事に一日の8割をとられ、のこりの貴重な2割を、社外からの電話対応やら、支払い決裁やら、なんやかんやの相談にとられ、あとは帰宅後の自分の時間をつかってみっちり朝まで仕事。これじゃ体もこわすというものだ。それでも続けているのは、やっぱ大手企業ではできない企画を実現できるのが中小スタジオの存在価値だから、と思っている。
ゲームクリエーターを目指す若者が依然として多い。素人と限るつもりはない。業界人にもすごく多いんだもん。
そういう人とあってて感じる絶望感に似た感覚がひとつあってさ。
「僕はお金には興味ないんだよね」
とか
「作りたいものをおもいきり作らせてくれる環境があればあっといわせてみせる」
とか涼しげにいうのがかっこいい、という風潮ね。
誰が作ったんだろうかね、こういうう風潮。僕ら裏方なんだぞ。
「お金に興味がない」というのは正しくないよ。「使うお金は心配したくない」でしょ? 懐に入ってくるお金に興味ない人なんていないんだから。その影には金に手を焼く人が必要なんですよ。会社のお金なんてほっとけばどんどんなくなるんだから。僕はお金に無関心ではいられない。もっとほしい、とはっきりいえる。できることならもっともっと制作費をかけたいもん。でも家賃とか給料とか光熱費だとか、そのつじつまを合わせなきゃならないから、大変なのだよ。だから社長は偉いのだよ。『社長だから偉い』んじゃない、『だから社長はえらい』のだ。
フランシス・F・コッポラの奥さんのエレノアが書いた『ノーツ』という手記を22年前に読んだ。ここには、コッポラが『地獄の黙示録』の撮影が泥沼化する様が描かれている。予算も時間も尽き、製作中止。クレジットカードも止められて、ゴッドファーザー1・2で獲ったオスカー像を二回の書斎の窓から次々とプールサイドに投げつける半狂乱のコッポラの姿が、奥さんの目から生々しく書かれている。
でもそういう執念があるから、彼の作品はどれも卓越したものがある。おなじ駄作であっても、ハリウッドのそれとはぜんぜん異なる殺気めいた怨念が漂っている。
『斉藤マジックを間近で見たい』
そういって大玉に合流した若きプランナーがいた。
『マジック??』
そんな器用なことは私にはできないですよ。
ヒットさせたければ、スーツを着て自費で営業流通の方々に挨拶に行きましょうよ、日本のクリエーターのみなさん!!
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