ボクトツとした腰丈ほどの木の棒。
美しく芸術的な形をしているといわれるとそんな気もするが、さてこれを商品として売ってこい、といわれても、なんともアイデアが浮かばない。
そのうち営業マンの一人がこういいだした。
「木の棒か・・・。木の棒ってのはモノの名前にちがいないけど、使い道の名前になっていないからダメなんじゃないか?いっそ杖(つえ)って名前にしたらどうだ?」
そう言い出して、木の棒を高尾山の登山口にもっていき、「杖」という名で売り始めた。
そのとたん、ただの木の棒が登山者相手に飛ぶように売れ始めた・・。
ものの価値というのは不思議なものだ。
名前が変わると、それを必要とする人の数まで変わってしまうのだから。
人間というのは、単体でモノの価値を判断する能力はあまり高くないのではないだろうか?そう思うことがある。
だったら価値を判断しやすいモノに置き換えてしまったほうがいいかもしれない。
僕はいま写真に凝っていて、いつか商売に出来たらいいなと思う。でも写真が額に入れられて路上などで売られている風景をときどき目にするけど、買ってゆく人はほんとに見たことがない。そこで、冒頭の営業マンのようにどうやったら写真作品を商売にできるか、と考える。
古き僕の知人で、写真や絵を売りまくった男のことを思い出した。
「デスクトップ壁紙集」というCD-ROMを出した人物だけどね。
別の知人はそれよりさらに売った。「マウスパッド」という名でだけど。
写真や絵を買ってくれる人も、置いてくれる店もなかなかないが、商品名がかわるとどういうわけかそれがドンとふえる。でかい店が量販してくれる。
不思議なことに、人は欲しいと思う対象と、それを買う口実が一致していないほうが、買いやすいことが多々あるようだ。とても変なことなのだけれど。
写真という商品名ではとっつきにくいけど、マウスパッドならば話は別だ。生活材であれば、買う口実が十分にできる。買った理由はというと、「写真が気に入ったから」。
つまり、商品を商品とせず、付加価値にしてしまうのである。
売りたいものをそのまま商品とせず、むしろ付加価値にしてしまったほうが、人は買いやすいのかもしれない。なんといっても商品が置かれる場所が数百倍に化ける。過去のヒット商品、仮面ライダースナックやグリコのような「おまけ菓子」なんてのは、お菓子として買っていたけれど僕らにとってまさに「おまけ」が狙いだった。
そう考えると、写真を売る手立てはいろいろあるじゃないか・・・・。
「ハンバーガーを待つ三分間の値段」という本の、日常の中のエイリアンという項で書いたことなのだけど、新しい概念というのはすでにあるものの名前を装って生活に入り込んでくるものだ。消費者の心の中に、すでにそれをうけとめる引き出しがあるから。
売りにくいソフトは、生活材の一部になってしまったほうがいいのかも・・。