「ずっと大手企業の営業職だったせいで何も専門がないんですが独立するにはどうしたらいいでしょぅか?」
行きつけのバーでそんな相談を受けた。
「ふーむ・・・」
考え込んでしまった。もっともな話だが、しかし、どこかに違和感がある。それはなんだ??と。
むかし大手企業から独立したとき、この手の相談は後輩から山のように受けた。
「営業ばかりやっていたから、手に職がない」という相談。
たしかに営業というのは、扱う商品や業種がかわれば、それまで築いた人脈もへったくれもあったもんじゃないし、ゲームや書籍や映画や音楽のように実績を形としてのこせるものでもない。なにせ売るのが営業なのだから、そのあとに形がのこること自体ありえない。
「・・・しかしだからといって、手に職がないということなのだろうか?_?」
そんなことを自問自答しているうちに、はたと気付いたのである。「営業」などという総称をいつまでも名乗っているからそう思えてしまうにちがいない、と。
営業というのは、そもそもプロセスとか行為の名前であって、成果物の名前ではない。スポーツ選手に練習は不可欠だが、だからといって「練習専門」であってはならない。練習はあくまで練習なのである。
それと同じで、営業マンの本当の仕事は、「営業」とよんでいてはいけないのではないか? にもかかわらず、「自分は営業担当だから」といっているうちに自分の本当の専門性がみえなくなっているのではないだろうか、と。
最近、コーチングという言葉をよく目にする。本もたくさん出ている。
このコーチングというのは、そもそもはスポーツの世界で培われた概念だそうで、それをビジネスに応用しているものだそうだ。
その人その人のよいところを見つけてやって伸ばしてやる、という、ちょうどマラソン選手に対しての小出監督のような存在がコーチで、そのプロセスの手法をコーチングというのだそうだ。
こういうコーチ的人物は、どこの企業にもたくさんいるはずだ。彼らがあの手この手を駆使して出来の悪い新入社員をいっちょまえの営業マンに養成してきたはずである。
そういうどこにでもある行為をしっかり体系化し、そこにあたらしい名前をつけることで、分野がうまれる。そしてその分野の第一人者がそこに誕生する。
ロックギタリストの物まねをして飛んだりはねたりする輩は昔から五万といたけれど、そこに「エアギター」などという名前をつけて世界大会をする、などというばかばかしい行為も、それが認知されさえすれば、「スペシャリスト」が生まれる。事実それで有名になった人物がいるわけである。(ちなみにネクタイと眼がねのいでたちでおなじみの金剛地武志君は本物のミュージシャンである)
「私たちは偉大なるシロウトだ」という言葉を聞くことがある。ゲームは作れないが、やることにかけては誰にも負けない、なんてのがそれにあたる。しかし、そういう人たちが「デバッグの受託業」とか「チューニング調整の請け負い業」を看板に起業し、今では立派に成立しているのである。
営業ってつまるところは、その商品をほしい人を探すのがうまい、とか、ほしい気持ちにさせるのがうまい、とか、あるいは、だますのがうまい、とか、いろいろなヤリ方があるにちがいない。どれも個々の営業マンのアプローチである。それらを全部「営業」と総称していたのではもったなさすぎる。このプロセス(手口?)を体系化するのである。そしてそこに名前をつければいいのである。
できればその新分野名には絶対に「営業」という言葉をいれないほうがいい。もはやちがうものなのだから。既存の枠組みをぶちこわすというのは、たとえば、そういう行為だったりするのだと思う。
そうやって周囲を見回してみる。すると、たくさんあるではないか、分野として格上げになるまでは名前すらなかった職業が、ごろごろと。
コピーライター、インテリアコーディネイター、テレホンアポインター、セックスカウンセラー、失恋アドバイザー(←あ、これはまだ分野としては成立してないか)・・・。どれも今では充分な文化をもつ分野である。
「君がその会社で培ってきたノウハウの中心を再発見してはどうか?そしてそこに独自の名前をつけてそれをウリにしてはどうか?そしたら君も、立派な第一人者だ。たとえば、マッチング・コンサルタントとかさ」
「マッチングコンサルタントってなんですか?」
「それを考えるのが君の役目だよ」
「なるほど・・・。ほー、いい話を聞かせてもらいました。コンサル料はらわなきゃ・・」MBAを持つという彼は、そういってくれた。 「こんなことでよけりゃいくらでも」と思う。
前著の「ハンバーガーを待つ3分間の値段」のテーマは「名前をつけると、それまで存在しなかったものが新たに出現する」、だったけどこんなところでも応用できるのかもしれないなぁ。
これから僕も「スペシャリスト・コーディネイター」とでも名乗ろうかな・・・。
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