たとえどんなに美味なワインであっても、それが顔も見たくないほどの悪徳資本家のワイナリーでつくられたものだっら、小作人たちにとっては、まずくてとても飲めたもんではない。
たとえどんなに音痴で下手な歌であっても、男が愛する者のために旅立つ船から聞こえてくる歌声であったら、それは娘の魂に響く歌にちがいない。
つまり、食も音楽も映画もデザインも、あるいはそれがいかなる分野のものであろうとも、そこに絶対などという評価はありえないものだ。それをよしとする人の数の比較だけの話である。
安物のワインを不用意に「うまい」と誉めると馬鹿にされる風潮がある。
上物とされているワインをいかに言い当てるか、それが客の格付けになる。そういう馬鹿げた慣習が、ワインの楽しみをゆがめてしまう危険性がある。
ビバリーヒルズの知人の豪邸に居候させてもらっていた頃、その家の主人が好んで買ってくるのは、でっかいビンにはいった9ドル99セントの白ワインだった。夕方になると、庭のテーブルにろうそくを灯し、それをぐびぐびと飲んだものだ。「おれはこのスーパーで売ってる白が好きなんだ」と主人は語っていた。その人を敬愛してやまない僕にとっては、いつしか、カリフォルニアワインの白が味の基準となった。
白が好きというのは、ワインの世界ではあまり歓迎されないようだ。
ましてや、カリフォルニアもので、しかも値段が格安の味がいいってんだから、「斉藤君はまるっきりワインがわかってないね」ということになる。
人間には二種類のタイプがいる。
自分なりの審美眼を持つ人と、それをブランドや値段に委ねる人。
「磨けばひかるダイアの原石」を見つけることが出来るのは前者であって、それをショーウィンドウに並んだ商品として高値で買う羽目になるのが後者だとしたら、僕はよろこんで、白ワインを「それでもおいしい」、といえる人間でいたいのである。
そうありつづけることはけっして容易なことではないのだが・・・。
コメント