斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
フォトアルバム

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No Computer Used !!

高校生の頃、つまり70年代から80年代にかけて流行ったアーチストのひとつにBOSTONというバンドがある。

彼らの二枚目のアルバム"Don't LookBack"のLPジャケットを観音式に開くと、内側にはでかでかとしたフォントで"No Computer Used, No Synthesizer Used"と書いてあった。「コンピューター、シンセサイザーは一切使用していません」という意味。

彼らのもたらした音は当時は斬新で、たとえばオフコースの後期の「愛をとめないで」などにはサウンドにとどまらずメロもそのまんま使われている。それくらいそのサウンドは独特だった。それらをすべてアナログの組み合わせで作り出すには結構な手間があったにちがいない。

武道館での来日ライブでは、どでかいパイプオルガンをステージに設置して演奏していたが、その運搬や設置コストは膨大だろうな、と子供心に感じた記憶がある。たしかリードギターのメンバーがエンジニアだったはずだから、意図的に、確信犯的にアナログで作ることにこだわっていたんだろう。

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こういった「懐かしアーチストもの」は、時おり紙ジャケットでCD再販されるわけで、僕も先日そそくそと購入したわけである。

そんでもって、車のCDプレイヤーで懐かしく聞いていたわけだが、ふと気づく。「コンピューターを一切使用していない」と誇らしげに宣言された音源を、僕らはいまデジタルで聞いているではないか。

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アーチストが、素材屋と違う点は、それが完成した作品である、ということ。それが特殊合成の映像であっても廃品から作られたオブジェであっても、あるいはスナップ写真をコラージュした絵画であっても、作品は作品だ。そこに使用されている素材はあくまで素材にすぎない。

しかし、デジタル技術は、アナログ作品をすべて「素材」にしてしまったのかもしれない。

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ゴジラの泣き声を、音効さんが古釘を抜く音と、錆びた閂から作ったという話は有名だ。アナログの時代は物質を熟知した専門家が、経験を駆使して音源をつくった。ところがデジタル時代のサウンドアーチストは、ProToolsのオペレーション技術に長けていても、「作る」という経験が希薄だ。だから過去の音源にその矛先を向けようとしがちだ。音源はそもそも「存在する」もので、彼らはそれを加工するという意識である。

だからゲームのサウンドアーチストは素材集のCDをたくさんコレクションする。けれど、マイクで音をロクハンするという発想はない。だから作れない理由を「素材集にはいっていないから」とする。「だから君がいるんだろう」という話になる。

僕は、だからいつも作品を作るときのサウンドはkさんというラジオの音効さんに依頼する。彼らはだから、必要に応じてマイクをもってロクハンにいく。そこにはアナログだけが持つ空気感、がある。だから、いい。

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「コンピューターは万能」という誤った意識が先走りしすぎて、「音を創る」という技術を若いクリエーターは失ってしまったのだろうか? 三谷幸喜の「ラヂオの時間」にも描かれているが、音というのは、空気空間をどう切り取るか、に面白みがあるはずなのに・・・。

事実、ビートルズの最新アルバム(?)は、4トラックのテープをジョージ・ハリソンの息子が特権でサンプリングしPCで加工して作ったものだという。そそくさと買って、そして聞いてがっかりした僕は、そういう理由からだと妙に納得したのである。

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記憶と記録と物質

フランスに立つ前のどたばたの理由は、ちょうど確定申告のシーズンだったから。

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3月にくる「確定申告」というのは、要するに前年度の個人決算だ。
会社の決算と異なるのは、経理担当者などがいないということ。つまり、経費台帳などが存在しない。(サラリーマンの場合は、会社が年末に調整してくれているので、原則、申告不要である。)

だから、経費(控除)にどんなものがあったかは、一年間の記憶と記録を辿ることになる。
僕のように、日々すったもんだして生きている人間にとっては、経費履歴なんていちいち残してないし、すべては忘却の彼方にすっとんでしまっている。要するに記憶は曖昧だし記録なんてないということだ。

ところが、出版社からは印税の源泉票とか、病院からは年間医療費の領収書とかが送られてくるわけで、それらのはいった缶をあけると、ありがたいことに、ここに必要な情報が紙という形で残されている。意識からは忘却されていても、これらの紙が物体として僕の記録を留めてくれているわけだ。僕がどれだけ酩酊したとしても、質量保存の法則があるかぎりこれらは存続し続ける。、春の暁の夢のように記憶がふっ飛んでしまう、なんてことはない。

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パソコンで仕事をするようになってから、この手の記録が少なくなった。サーバーにある企画書は日々動的に更新可能で、しかも伝送可能である。その対価として、かつてのようにバインダーに閉じられたエビデンスとして日付とともに保管されるということがなくなった。

サーバーのハードディスクが飛ぶと、だから僕の記録は消滅してしまう。物質はそう簡単には消滅しないけれど、デジタルデータは一瞬だ。

思いで深き光景を捉えた写真も同様だ。幼い頃の娘の写真は形を伴わせないままハードディスクに保管していて、いつしか消滅してしまうのではないか、という恐怖心が時おり自分の中を走ることがある。

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さてこれは40年以上前の、僕の子供時代の写真。両親が、この一葉の写真を「物体」として残してくれたことに感謝している。紛失することはあっても物体は絶対に「消滅」しない。デジタル世代の申し子である僕は、恥ずかしながらその存続する力に感服したわけである。

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日本橋の三井本館にある金庫。いまではすでに重要文化財に指定され、「建造物」ではなくなったと聞く。(これつまり法律上はオブジェや彫刻の扱いになるらしい) そのおかげで隣の区画に高層タワーが建造可能になったそうだ。博物館になった今もこの金庫だけはいまだにその体をしっかりと留めて活躍していると聞く。(写真は2002年に撮影されたもの)

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ここには、明治時代以前からの三井財閥の権利の記録がすべて物体として保管されている。ここに記録されている膨大な不動産の権利を金額に換算したらいくらになるのだろう。

人類の記憶というのは形がないだけに曖昧だ。だから人は、そこに質量を与えて保管することを発想した。100年以上前に当時の人々が合意した内容がこの金庫の中でいまだに形をもって後世へと主張をし続けているわけだ。その体はポロポロに劣化しながらも・・・。

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確定申告の時期になると、缶から出てきた領収書という紙製の物体が、地球上に生まれたその存在をすべて捧げて僕の記録を体現してくれていると思うと、愛おしく思えてくる。

情報ってなんだろう?
時々そう感じてしまう。

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帰国しました

無事帰国した。
昨日はデジトイズの役員会も無事終了。パブリッシャーとなってゆくための増資も実行。

さあこの四月は、以前ここのブログでもすこし紹介したけれど、航空会社の設立準備に入る、ことになりそうだ。笑

そういえば2日から放映されるNHKの番組の編集を見に行った。
ドラマで描かれた自分の幼少期、本人である僕にいわせると、あくまで演出家による創作の世界、である。他界した母や当時の先生がどういう人だったのか、なんてことばだけでは伝わらないものだ。あるいは自宅がどんなだったか、なんてのも、図面で説明しないかぎり説明できない。少年時代の僕はこんなに可愛らしくないし、僕の部屋は畳じゃない。とにかくゲームと同じで、言葉を尽くして説明しているつもりでも、出来上がりというのはまったく異質に出現するものだ。この番組が「ドキュメンタリー」とカテゴライズされていることがやけに気にかかるし、このまま放送されるということにかなり不安を感じるのだが、監督をはじめとするスタッフの熱意がすごくて「こうしたほうがいいんじゃないか?」とは言い出せず。

制作プロダクションによると6月には地上波で放映というから、親族には電話して説明しておかなきゃ。でないといろいろいわれそうだから・・・。

僕は僕自身についてあまり興味がないが、自分とはあきらかに違う「自分」がマスに乗ることには、それなりの抵抗感を覚えるなぁ。なにせ僕は公人ではない。

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エイプリールフールが近いですが・・・

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日本人にとって四月といえば、花見や進学、はたまた昇格の季節でしょうか?しかし毎年この季節を楽しみにしている私にとって四月とは、1年間溜まったストレス発散の季節なのです。インターネットのおかげで、私はこれまでいままでずいぶんとオオウソをついてきました。

さあ今年はどこでやりましょうか・・・。すごくたのしみです。(ストラスブルグより///写真は昨日パリ市内)

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旅先ねころびインターット

軽さ優先のため旅先に持ってきたのはタブレットいっこ。行く先々で検索するにはちょうどいいがブログは面倒くさい。

だけれど前回なんとなく反省しとりあえず更新してみようと思い立つ。

で今回はタブレットペンで自分のイラストでもかいてみようと思いつきで描いてみた。

ベッドで寝転がりながらネットをみる感じこんなである。

今回はとりあえずやけに文字の少ない更新なのである。

ちなみにこれから目指す行き先はアルザス地方である。

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「できない言い訳」は無限にある

ここのところ、更新が遅れている。
理由を探せばいろいろあって、たとえば「多忙だ」というのがその主たる、そして鉄壁の理由だったりする。でも本音を言えば、実のところ、「何を書きゃいいんだ!?」という自己ジレンマが定期的に襲ってきているだけかも。素直にその理由をいえばきっと誰でも納得してくれるものも、あれこれと防衛本能が働くから、いつしかインチキくさい言い訳になる。

ジレンマっていうか、要するに日々をいちいち書いたら、そりゃ面白いだろうけど守秘義務契約違反だからね。多大な賠償請求をされてしまう・・・・。なんてのもやっぱり言い訳だわ。そう、どんな仕事でも、「きちんとできない理由」なんてさ、見つけようとすれば100も200も見つかるものだ。でもいちばん納得してもらえるのは「書きたくないんです」みたいな言葉である。

明日、仕事にいけない理由。今日締め切りの仕事を納められない理由。すべては、なんとでも理由付けができるものだ。それをあげればあげるほど、どんどんと自分は嘘つきになるし、たぶん人も気付く。

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そういう状況に対して「だめじゃないか」と叱ってくれるのはとてもいい職場、言い換えるととても甘い職場だったりする。サラリーという報酬をなんだかんだ払ってくれるからね。その代償として「叱られる」わけで本当の第一線の現場では「はい、わかりました」とだけ事務的に伝えられるだけ。そのかわり報酬はびた一文も入らない。次の仕事もこない。それだけのことだ。理由なんて関係ない。交通違反がそうであるように、ただひたすら「結果」だけ。

だから逆に、そういう緊張感をわきまえたプロと仕事をするととても気持ちがいい。仕事をしていて自分が育つのがわかる。でもそういうプロの人を事前に見極める、それが難しい。第一線の人であれば、その人の仕事履歴をみればすぐにわかる・・・。といいたいけれど、ゲーム業界ってのは、一人ひとりの成果物が曖昧なぶん、本当のところの仕事ぶりがはっかりわからないのである。

そういうときは、ブログを見ることにしている。むらっけがある人、かなり手を抜く人、異常にこだわる人、独りよがりな人、日々規則正しい人・・・・。ブログってのは、本当にその人の仕事ぶりがでるものだからね。

そういう思いで、自分のブログを俯瞰してみる。たしかに見事に出ているではないか、僕の性格が・・・。

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実はあと数時間後には、僕は成田で出国審査を受けているだろう。そう、ここしばらく海外逃亡に出るのである。行き先は寒くてへんぴな場所だから、ブログ更新も不可能だと思うのであしからずご了承いただきたい・・・・・いや、これももしかしたら僕特有の言い訳に違いない。世界中どんなところでもネット接続なんて、できるはずなのだから・・・。要するに、プロ意識がないのである。たとえそれが個人のブログであってもね。きちんとやり通そう、という意識。だから僕はB級のブロガーだ。そして・・・たぶん、本業においても、まだまだB級だ。

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HasselBlad 503CWD(デジタル)についてすこしくわしく個人の印象など

今回は前回から気分をかえて、ハッセルブラッド503CWDについて、すこしだけくわしく、という話。

さて、この503CWDというのは、ハッセルブラッド博士生誕100年を記念して500台限定で製造されたモデルである。すでにこの手の情報に興味をお持ちの方はご存知のとおり、デジタルバックというCCD部を既存のハッセルのフィルムマガジンに取り付けて使用するデジタルカメラで、画素は4000*4000で1600万画素。これまでのデジタルの宿命的なハンディキャップと同様、本来のハッセルの6cm四方よりも一回り小さい画像サイズとなっている。1.5倍ほどレンズ焦点がズームされた程度と考えていい。

さてその内容に触れる前に、このモデルの存在についてすこし触れておこう。ハッセルほどのブランドの限定品ならば、僕たちの常識では即完売するとか、プレミアがついて売られているという推測が大きく働きがちだ。しかしこのモデルはさにあらず。目下のところ値崩れこそしていないようだが、依然として市中に在庫をちらほらと見受けることができる。ただし市中といっても国内で見かけることはほとんどまれで、eBayなどの海外オークションであるが・・。

僕がみかけたプレミアものは、200/500というシリアルのように、ちょっとレア性を伴うものだけだが、それでも売れている様子ではなかった。
購入価格は11000ドル超えだったけど、入国の際に相当の課税がされるのがポイントである。日本での正規価格がたしか200万円越えだからそれと比べればはるかに安いけれど。

ちなみにいまはドルが記録的に安い時期だから、昨年より10%前後安いということになるわけで、もしかしたら買い時かもしれない。ただし、RollieflexやSinarが6*6のフルサイズを発表しているので、それとの比較ということになるだろうけれど。スペックだけでいうならば、明らかに後者の製品群に軍配が上がるような気がするが・・・。なんてったって、Hy6は6*6のフルサイズだそうだからね。くわしい性能はわからないけれど。

ま、それはそれとして、どうして僕がこんな変わった(!?)カメラを入手したかという話であるが、僕はとある雑誌のポートレート写真をみてしまってからというもの、ずっと中判に心を奪われてしまったからだ。しわや毛穴までが顔に刻み込まれたウィリアム・バロウズの写真なんだけど、つまり大きな正方形CCDで人間のモノクロ・ポートレートをばっちりしとってみたいという欲望である。銀塩となると、せっかちな性格の僕には無理なことはわかっているから、デジタルを探していたのである。

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ちなみにその心をうぱった写真はMAMIYAで撮られたものだけれど、マミアのデジタルもなかなかの値段であるし、デザインがSF的である。僕はどうしてもクラシックなスタイルに憧れてしまって(つまり形から入る人間である)、つまるところHasselかRollie、という結論に行き着いてしまった。で、デジタルモデルが発売されていたのがHasselというのが選択理由である。

いうまでもなく、もっと画素数の高い上位機種がHasselBladには発売されていたのだけれど、こちらもデザインはクラシカルとはほどとおい流線型だし、価格は300万円も400万円もするわけで、触手はこの旧来のデザインをした503CWDに絞られていったというわけである・・。

で、オークションで見つけた一台を知人に背中を押してもらい、えいやで購入したのがこれ。歴代の僕の買い物の中でも最大の散財系アイテムとなったことはいうまでもない。

ちなみに映画「東京タワー」の中で、オダギリジョー演じる僕がつかっているのもこのシリーズだったので(設定当時のモデルだからデジタルであるわけはありませんよ)、そのシーンを見たときはすこしうれしかった・・・。ま、ハッセルブラッドという風情のあるカメラ文化そのものに対するノスタルジー的な意味しかない話でありますが。

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さて、上の写真は、このデジタルバック部分の液晶面である。(液晶部の形が変わっているので、保護シートは購入時のままのものをつけて使っているのでご容赦ください)
このデジタルバックは、いうまでもなくカメラ本体と同期しているものではない。だから、本体のオペレーションとはまったく別に、左上の電源をいれるところからすべてははじまる。

ハッセル本体は、ピントも絞りもシャッタースピード調整もシャッターチャージもすべて手動であるから、デジタル部はその動作情報をなにも感知してはいない。ただ歯車が機械的にシャッターが開閉したことだけを伝達し、デジタルバックはそのそれを信号としてセンサー部に伝達する仕組みである(おそらく)。

ファイルフォーマットはRAWのオリジナル版のみがサポートされており、jpegなどの圧縮ファイルの対応はない。したがって画像サイズも選択の余地はなく、したがって2GBのFlashカードで最大80-90枚程度のファイルが保管できる程度となる。

このRAWのオリジナル版とはなにか、ということになるが、くわしい情報はメーカーサイトなどでしらべていただくとして、使っていて一番大きい特徴は、撮影した写真に○△×のいずれかの情報を付記できることである。この操作は撮影直後、ないしは本機でブラウズ時にユーザーが下の写真の信号機みたいなボタンで指定できる。

何のためにこの情報があるかというと、本機上で、不要な写真をまとめて消去したり、あるいはパソコンに読み込む際も同様に指定して読み込むことができるというだけのものである。この情報のおかげで、通常のRAWとはデータフォーマットが異なるわけで、一般的なRAW対応ソフトをデータ読み込み時に使用することはできない。同梱されてくるFlexColorというソフトでのみパソコンで画像を表示することができるわけだ。

なお、+/-(プラスマイナス)のボタンは、レビュー時の拡大縮小である。ただし問題は、このレビューの品質である。さわゆる画素の粗いサムネール表示がこの小さな液晶にされるわけだからピント状況がはっきりと確認できないだけでなく、FlexColorというソフトにおいても同様だから、作品がどれもこれもがピンがあってないように錯覚させてしまうのである。これが使用していての最大の不満といえる。

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デジタルバック部分はワンタッチで着脱可能で、下の写真のようにボタンをスライドすることでデリケートなCCD面がおもむろに露出する設計になっている。

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このハッセルブラッド本体には、この限定モデルに限り503CWDと表記が成されているが、一般的な銀塩対応の503CWとまったくおなじ構造のものである。同様に、デジタルバック部も単体販売されているものと同様で、表記だけが異なる。

逆にありがたいのは、バッテリーである。デジタルバックの底部にスライド装着されるバッテリーはソニーがごく普通に市販しているリチウムイオンのLサイズパックで、販売ルートがごく限られている日本のユーザーでも追加購入が容易に行えるのがありがたい。

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CCDを含めてこのデジタルバック部の製造元情報などについては、パッケージ内には正式にうたわれていないのでここではそれ以上の情報については触れないでおく。

使用感としては、どうも赤味が強いような気がすることと(RAWなのだからあとでどうにでもなるとはいうものの)、それからコントラストが低いように感じることが多い。

明るいレンズがあまりないハッセルと、ラティテュードの低いデジタルという組み合わせはライカM8やR-D1と比較してどうもぴんとくる感じがしないので、さんさくと写真をとりたい人にはあまり手ごたえが少ないのかもしれない。

だけれど、首からぶら下げているこの筐体の存在感は強烈で、よもやデジタルとは思えないクラシックなデザイン(!)は、対象となる人の表情から緊張感をとりのぞく癒し効果においては秀逸のように思う。

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がん細胞

思わず目を背けたくなるこの言葉・・・。

自分の家族の体からこの「がん細胞」が発見された、となった時、みなさんはどう自分と向き合うだろう

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数週間前にすでに切除はすんでいた。
その検体からこの細胞が発見され、その結果が今日の午前中に知らされた。
「もう残っていないはずだ」という医師の言葉とともに・・。

京都からの新幹線の中で本人からそのメールを受け取り、そして思わず、自問自答する。
「家族としてこれは、闘いの「おわり」なのだろうか?それとも「はじまり」なのだろうか?」と。

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人というのは、人生の経過とともにいろいろな体験をするものだ。
そのベクトルは年齢とともに微妙に、しかし確実に変わってくる。
そして僕の人生に、またあたらしい経験がひとつ加わろうとしている。
どうやら人生の後半というのは、あまり加わってほしくないページが待ち受けていて、「なんとなく」それはわかっているのだけれど、やはり訪れてほしくないものに目を向けざるを得なくなってくる。

「ジョーブラックによろしく」という映画を思い出した。
ブラピが演じる「ジョー」の正体は、「死」。(日本語では死神と訳されていたが)

彼がある日、人間の肉体を借りて、アンソニー・ホプキンス演ずる初老の紳士を訪れ「あと数日でおまえをつれてゆく」と告知をする。
そしてしばらくの猶予期間を人間社会で過ごすうち、美しいその娘に恋をし、恋を知らない「死」(=ブラッド・ピット)は彼女を一緒に自分の世界へと連れ去ろうとする。それを聞いて「私だけにしてくれ」と激怒する父・・・

死というのは、やがて訪れることが誰しもわかっている、最大の未知。
最愛の人々、そして見慣れたこの社会とのお別れ。
知っているくせに、若いうちは決して訪れないと過信している、人生第三の大イベント。

アップルのスティーブ・ジョブスは、すい臓がんだったことをスタンフォードの卒業式スピーチでカミングアウトした。
「そう告知された瞬間から、日々なにをすべきか、明確に見えてくる」
それが学生たちへのはなむけの言葉だった。

死というのは、もしかしたら、自分が生きている意味を、再度確かめるためにある最大にして最後のイベントなのかもしれない。・・・それが本人であっても、周囲の知人家族であったとしても。

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企画会議はタブレットPCでいこう

なんどもこのBLOGで取り上げてきたタブレットPCの威力ではあるが、ここのところ、新生デジトイズ社内の会議室でさらにそのパワーを増しているので、今日はすこし僕の活用術などを書こうと思う。

***************会議のライブ感

そもそもタブレットPCは絶滅の危機にあって、とくにピュアタブレットはほとんどといっていいほど市中にはない。いいかえるとかなりレアな存在であって、手元にある(将来のバックアップを含めて)3台あるNEC製のVersaProVY11F/GL-Rは、僕にとって、いや僕たちにとって貴重品ともいえる存在となっている。

そもそもタブレットPCはいわゆる"パソコン"として捉えてはその価値を誤認する。パソコンとしてではなく、すべてのデジタル装置類とフル互換性のあるドキュメントマシンとして捉えると本来の価値が正しく評価できるように思う。

厚さ1cmたらずの、まるでモノリスのような形状をしたこのマシンは、会議テーブルではプロジェクターに接続されその画面をそのまま大スクリーンに投影することで、最初の威力を発揮するのが特徴だ。

そもそもプレゼンテーションというのは、資料配布するための場ではなく、理解を促すことが最優先だ。わざわざ人を集めた場で一番大切なもの、それは「ライブ感」だと思う。

この「ライブ感」を忘れてしまう会議が大手他社には多く、それらは儀式などと呼ばれているけれど、じゃ何のための会議かというと書類を配布する儀式であったりする。大スクリーンに投影された画面に、せりふとともにペンですらすらと描いて説明することは、プロセスを共有するためにとても有効だと思っている。ここでいうライブ感というのは、ソフト的にいうと、変化する画面、だ。PowerPointのように固定化されたものではなく、質疑に応じて「変化」するドキュメント。

会議の途中ないしはあとでそのドキュメントを配布したいとなったら、タブレットPCから(無線LAN経由で)プリントアウトして手渡せばいいし、メール添付でそのまま配信してもいい。これが第二番目の威力である。そもそもドキュメントなんてものは共通体験の結果として配布されればいいものだ。大事なことはとにかく参加者の「視線」「意識」を一点に釘付けにすること。これをプレゼンターは忘れてはならない。各自がばらばらに下を向いて書類を見ているようでは、参加者の脳細胞は互いにシンクロしないのだから。

***************タブレットに向かう姿勢

タブレットの第三の威力は、会議室から出て、一人になったときでの肉体の開放感、つまり寝転んで使えることである。ソファーに寝転んで通常のPCを操作することはできないが、タブレットは快適だ。なにせただペンでだらだらと書いていればいいのだから。

この姿勢というのはけっこう大きくて、たとえるならばWiiとNintendoDSの違いがある。機械に姿勢を合わせるか、自分の姿勢にあわせるか、の違いである。姿勢が人間の精神に与える影響は大きい。僕のようにだらけた姿勢でメモを繰りたい人間にとってタブレットは、紙製のノートの次に優れたメディアである。ただ紙は、明るく光らない。液晶は光ってくれるからこれがなかなかよいのである。とくにベッドサイドではね。

***************好みの質感

そうなってくるとこの「ペン」の感触が、すこしばかり重要になってくる。太さ、質感、グリップの感じ、芯と画面の摩擦感、どれもが人と道具の「相性」に影響してくる。

下はNECの当該マシンに付属しているペンである。実はこのペン、あらためて使ってみるとさほど悪くない。人さじ指についた2wayボタンは、対象物への右クリックと、そして消しゴムなどの機能を持っている。

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だが、僕のように手の大きい人間にとっていちぱんしっくりとくる名作は、なんといってもHPマシンに付属している下のモデルである。

***************HP製品付属のタブレットペンの名機

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このペンの握り心地は、重量感がかもし出すペン独特の安心感とそして安定感となっている。ワンボタンである分、消しゴム部は、ペンのトップ部分が感圧で対応している。P1070033
だから、手描きの絵を消すとき、ペンを逆さに持ち替えて画面をゴシゴシとこすることになる。カフェではお客たちがその様をものめずらしそうに眺めることが多い。ここに紹介しているものはすべて3年前の製品なのであるから、いかにこのタブレットの認知が低いかをあらためていつも思い知る。

僕はこのペンを秋葉の専門店で単品購入した。この店はパーツ部品としてこの名品を販売していたようだが、すでに製造中止となったせいでもう入手できない。バックアップで数本を購入した僕も、紛失および故障の経緯とあいまってここにあるのが最後の一本となった。いまでは屋外には持ち出さず自宅専用となっている。   

そのかわりに多用しているのが、下のクロス製のペンである。これはいわゆるボールペンのクロスブランドをライセンスしてWACOMが製造しているものだが、こちらもペントップが消しゴム仕様となっている。

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***************画面の傷と保護

これら消しゴムの機能を駆使していると、液晶画面(プラスチックの透明カバー)にこのプラスチック製の消しゴムトップ部との摩擦で細かな傷がついてしまう。これが、タブレットPCへの最大の劣化特性である。プラスチック同士の摩擦で作られる細かな傷はまるで曇りのように透明カバーを白色劣化させ、美観的にもクリアさにおいても問題となる。なので二台目から僕は、この液晶に保護フィルムを貼って使用している。このフィルムのおかげで、操作の安心感はきわめて高くなる。

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***************芯

芯は交換可能であるので、いくつかの素材を試して一番手になじむものを使うとよい。僕は、フェルト素材のものを多用するんだけれど、それはこの素材がかもし出す快い摩擦感が好きだから。本来はPainterなど向けにデザイナー用につくられたものだろうが、図を描くときにとてもよいのである。これらはアマゾンでも購入可能。

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***************アプリケーション

もっとも便利に使っているのは、マイクロソフトがWindows XP tablet editionに付属させているWindows Journalで、ま、これは手描きのノートパッドである。それからMindManagerの新バージョンは、手描きの文字をワンボタンでテキストに変換してくれる。(手描き文字のオブジェクトが一行なので認識率が高い)

ま、オタクでマニアな照会文になってしまったけれど、この便利なドキュメントマシンは、企画者のために有効であって、ざくざくと対象物を荒削りに切り出して見せるためのものである。

それらを精査してまとめてゆく工程にまでキーボードレスを駆使することはお勧めではない。また重さや形状の違いから、一台二役を求めてキーボードつきタブレットを使うこともあまりお勧めできない。ピュアタブレットは断じてパソコンの代替品ではないのだから。

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春の好奇心

ここ数日の晴天と強い風。
これは春一番といっていいんだろうか?
とにかく何をするにも気持ちがいい。

こういう天気のおかげで、朝出社すると、いつもきまってエレベーターの中で、その日のアイデアが浮かぶ。
そしてきまってこう思う。「よし、今日はこのことをブログに書こう」と。

でも、帰宅すると忘れている。
「あれれ、なんだっけ?」と。
においのように些細なネタだから、油断するとすぐに忘れてしまう。
しっかりと言葉にしておかないと、思考というのは定着しにくいものだ。その許容量がとても落ちているのかもしれない。

ここのところそれが三回くらい続いているので、すっかり自信を無くしている。
脳細胞までが春一番で吹き飛ばされているのかもしれない。

もしかしてこれは春一番ではなく、老化なのだろうか?
だって記憶力はだれより よかったはずなのに・・・。

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今週もカメラを担いでKクンと車で出かけた。
今日はあてもなく東北道に乗ってずんずんと一時間ほど北上し、名も知らぬ田舎町のインターで降りた。

Kクンが持ってきたCDをかけながらの気持ちのよいドライブ。インターを降り、さらに日当たりのいい田舎の風景がひろがる国道を20分ほどいって、なんとなく地元のスーパーに立ち寄った。

そのスーパーに入って、店内が新入学シーズン真っ盛りであることに気づく。
書籍コーナーには、付録に目を輝かせる子供の姿があった。

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この少年の知的好奇心に満ちた眼差し・・・。
こういう眼差しを見るのが大好きで今の仕事をしている気がする。

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そういえば、ちょうどここ数日間、某局の番組企画で、自分が子供だった頃の取材を受けている。
「斉藤さん、あなたはどんな少年だったんですか?」そういう唐突な質問に答えんと、自分の少年時代に思いを馳せてみる。
一昨日は当時の先生の所在を確認するために、34年ぶりに同じクラスだった女の子に電話をした。記憶のもやがゆっくりと晴れ始め、忘却の彼方に追いやられていたものがすこしづつ蘇ってくる。そして思い出してきたこと、それはたしかにあの頃、目に入るものすべてが珍しくて珍しくて、ドキドキするような毎日があったことだ。一日がとにかく長かった。

この少年は何歳までこのドキドキするような好奇心を持ち続けてくれているだろうか?
それを持ち続けさせるのも、どこかで失わせてしまうのも、いまでは僕らの責任のような気がする。

僕の子供時代にコンピューターゲームはなかった。いまやゲームというのは、子供たちにとっては、テレビ以上の存在になっている。
僕たち製作者がどこまで純粋な好奇心を持ち続けていられるか、それが彼らに大きく影響を与える時代になっているのだ・・。

そんなことを話しながら僕と社員のKクンは天気のよい日曜の午後の帰路についたのであった。