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連休と休日のしくみ

3連休の初日に、体調を一気に崩した。
連日の疲れがたまっていたところに、木曜日の激しい飲みがダメ押しで加わった様子。

体を壊したのが連休中でよかったと思う判明、連休がもったいない、という気持ちの両方がある。休日に「病気なんかしている暇はない」とね。

日本は最近休日が多くなって、52週間分の土日と、12-15日程度の「有給」、そこに会社都合といわれている夏休みやら正月休みが加わると、130日を有に上回る。、普通のサラリーマンの場合は3日に1日以上が休日という計算だ。

日本の景気がいまひとつになりはじめた時期とこの休暇を充実させた時期が、実は関係しているのではないか、とひそかに思ってきた。一概に言えない、ということはわかっているけれど、会社をやっていて感じるものがある。

会社のパソコンでエロサイトをみていたり、チャットで社外の友人と話していてもわからない、携帯電話でいつでも知人とメールできる、それがIT業界だ。立ち仕事で過酷な労働を課せられていたかつてのトヨタの工場(ずいぶん前に、潜入取材をしたルポ本があったなぁ)のような時代とは違う。

「月給制度なんかやめてすべて成果報酬にしてしまえばいい」そういう人もいる。すると仕事が早い人が得をすることになる。

仕事ができる人を伸ばすのがこれからの日本の課題なのか、それとも仕事ができない人を守るのがこれからの日本の課題なのか? 所得格差なんて言葉が最近はやっているけれど、かつての社会主義的な給与制度にもどるのがいいのかしら?そうとも思えないのだけれど・・・。そこがよくわからない。

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常識的問題

歴史の教科書から削除するべき、しないべき、という解釈で大きくもめている案件がある。

教科書にのせるということは、いずれ日本社会に出てくる人材の常識と社会通念を決定するという大きな意味があるのだろう。
学校教育(とくに義務教育)の議論というのは、そういう意味をもっている。

でも、じゃ教科書に載せたところで、どこまで若者たちは常識的な知識として身につけて大人になっていくのだろう?
義務教育課程に含まれているレベルの知識だから、当然備えているものだ、と思っていると、とんでもないことになる現場が多い。

そんなことがあまりに多いせいで、今日のニュースを聞き、そして考え込んでしまった次第である。

********************

かつて社内のクリスマスカードをつくった。
いつも付き合いのある外部のデザイナーにスタッフがデザインを発注し、そして印刷され社内に積み上げられたクリスマスカード。そこには、「MARRY CHRISTMAS」と大きくかかれていた。

「おい、これじゃ、"結婚"クリスマスだよ」と思わず叫んだ。あわてて印刷し直しとなった。
クリスマス直前に会社に届いた第二版は、「MERRY CHRISTMAS」と綴りは直っていたが、略地図にて目印となるWendy's(ウェンディーズ)というハンバーガーショップがWednesday(ウェンズデー=水曜日)となっていた。さすがに時間がないので、そのまま出した。

その一年前、おなじスタッフたちの手によるクリスマスカードが納品されたのは、クリスマス当日だった。
「あれだけ事前に確認したのに、どうしてクリスマス当日にクリスマスカードの印刷が納品になるんだ? 相手に届くのはクリスマス後じゃないか」
そういったら
「"メリークリスマス&ハッピーニューイヤー"とあるから、正月までに送れればいいものかと思って」とスタッフはいう。

「私は英語は専門じゃないので、責任を問われても困る」
チェックも含めてそれが関係者たちの言い分である。

********************************************

日本人は、義務教育で3年、高等教育まで含めると6年、大学卒では8年の英語教育を受けていることになっている。(僕の中学生時代には週に4時間の英語の授業があった。)
国外から見た一般的な理解は、「そこまで義務教育が施されている日本人は英語が使えるはず」という国である。そう、ハワイやグアムやシンガポールがそうであるように。

それを前提としていいならば、この例のようにごく一般的な英語の読み書きは日本人社会人の常識としての技能として問うてもいいこと、となる。Merry Christmasというつづりが出来ないことは、あるいはそれを辞書で確認する技能がないということは、義務教育で学んだ能力を備えていないということになる。

しかし本当にそう捉えていいものなのだろうか?
だとしたら現実における日本人は前提技能が破綻していることになる。

かつてTowerのローカライズをしていたときに、とあるプログラマーはホテルのスイートルームをSweet Room(甘い部屋)とかたくなに信じてタイプしていた。そういうミスが発生する、つまり複数名がチェックしたにもかかわらず指摘されない組織は「特殊」となってしまうわけだ。

教科書に載せる載せない、と真剣に議論している人々のエネルギーは、学校教育のレベルとか、学生の意識の前で、虚しく風化してしまう気がする。

大きな、重要な、仕事をする上で、僕たちはどこまでのことを基本的に備えているべき常識としてスタッフに期待していいのだろうか?そんなことを考えてしまうのである。

Nair

△おそらくNailとしたかったのだろう(麻布十番のエステショップの看板)(7月2日追加掲載)

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常識的問題

歴史の教科書から削除するべき、しないべき、という解釈で大きくもめている案件がある。

教科書にのせるということは、いずれ日本社会に出てくる人材の常識と社会通念を決定するという大きな意味があるのだろう。
学校教育(とくに義務教育)の議論というのは、そういう意味をもっている。

でも、じゃ教科書に載せたところで、どこまで若者たちは常識的な知識として身につけて大人になっていくのだろう?
義務教育課程に含まれているレベルの知識だから、当然備えているものだ、と思っていると、とんでもないことになる現場が多い。

そんなことがあまりに多いせいで、今日のニュースを聞き、そして考え込んでしまった次第である。

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かつて社内のクリスマスカードをつくった。
いつも付き合いのある外部のデザイナーにスタッフがデザインを発注し、そして印刷され社内に積み上げられたクリスマスカード。そこには、「MARRY CHRISTMAS」と大きくかかれていた。

「おい、これじゃ、"結婚"クリスマスだよ」と思わず叫んだ。あわてて印刷し直しとなった。
クリスマス直前に会社に届いた第二版は、「MERRY CHRISTMAS」と綴りは直っていたが、略地図にて目印となるWendy's(ウェンディーズ)というハンバーガーショップがWednesday(ウェンズデー=水曜日)となっていた。さすがに時間がないので、そのまま出した。

その一年前、おなじスタッフたちの手によるクリスマスカードが納品されたのは、クリスマス当日だった。
「あれだけ事前に確認したのに、どうしてクリスマス当日にクリスマスカードの印刷が納品になるんだ? 相手に届くのはクリスマス後じゃないか」
そういったら
「"メリークリスマス&ハッピーニューイヤー"とあるから、正月までに送れればいいものかと思って」とスタッフはいう。

「私は英語は専門じゃないので、責任を問われても困る」
チェックも含めてそれが関係者たちの言い分である。

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日本人は、義務教育で3年、高等教育まで含めると6年、大学卒では8年の英語教育を受けていることになっている。(僕の中学生時代には週に4時間の英語の授業があった。)
国外から見た一般的な理解は、「そこまで義務教育が施されている日本人は英語が使えるはず」という国である。そう、ハワイやグアムやシンガポールがそうであるように。

それを前提としていいならば、この例のようにごく一般的な英語の読み書きは日本人社会人の常識としての技能として問うてもいいこと、となる。Merry Christmasというつづりが出来ないことは、あるいはそれを辞書で確認する技能がないということは、義務教育で学んだ能力を備えていないということになる。

しかし本当にそう捉えていいものなのだろうか?
だとしたら現実における日本人は前提技能が破綻していることになる。

かつてTowerのローカライズをしていたときに、とあるプログラマーはホテルのスイートルームをSweet Room(甘い部屋)とかたくなに信じてタイプしていた。そういうミスが発生する、つまり複数名がチェックしたにもかかわらず指摘されない組織は「特殊」となってしまうわけだ。

教科書に載せる載せない、と真剣に議論している人々のエネルギーは、学校教育のレベルとか、学生の意識の前で、虚しく風化してしまう気がする。

大きな、重要な、仕事をする上で、僕たちはどこまでのことを基本的に備えているべき常識としてスタッフに期待していいのだろうか?そんなことを考えてしまうのである。

Nair

△おそらくNailとしたかったのだろう(麻布十番のエステショップの看板)(7月2日追加掲載)

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ああ、そういうことするのね

ずるいね。

ま、いいけどさ。

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新規募集だ

すこし早いけれど、新会社で新規募集を開始することになった。腕に自身があるプログラマーの諸氏は、ぜひ応募してください。詳しいリンク先は、またここで紹介するので。

さてこれまでにない最大の特徴、それは「開発は、私がいっさい見ない」という点である。給料もそれなりにいいらしい。いわば、プロ集団、っていうのでしょうか。

ここ数年、開発管理とか工程管理ではさ、二足三足のわらじでやってきたから、行き届かなくてあれこれ自信なくしちゃってたからね。若い社員を伸ばしてあげることも上手くできていなかったし・・。 
なのでこの新会社では、「社長業」しかしないのである。あとはぜーんぶ、腕利きの人たちにお任せである。 「人が財産」と言い切る幹部たちだから、僕としても安心である。だから、気楽でルンルン気分である。

アルマーニのスーツでも着て、黒塗りのベンツで出社して、美人秘書にコーシーいれてもらって、日経新聞でも読みながら「おい、XXX君から事業計画の資料をもらってきてくれないか」くらいのことをのたまわってしまおうかな。

いやいや、いかん、念願の「映画の準備」をするのだった・・。

はっはっは。
道楽の極みは映画なのである。
15歳のときから8ミリ映画とってたからさ。夢なのである。
だから僕は、すこし躁状態である。

調子にのって取材中にその話をしたら「バーカ、みんなそんなこと言ってみんな会社つぶすんだよ」と朝日新聞のデスクに一括された。

ああ、いかん・・・今日の作業が終ってないぞ・・・もう3時半だ。

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銀行という会社

"銀行からお金を借りるとき、最初にしなきゃならないこと。それは、金があることを見せ付けることだ"・・・シーマン語録より

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新しく会社をつくることになった。
某G社との合弁会社である。
この新社は設立三ヶ月後にタイトルを発売するので開発費とは別に、製造費とこのテレビCM宣伝費としておよそ2億円が必要となる。資本金は小さいから、この新会社としては2億円が「短期借り入れ」として調達する額になる。個人からすれば大金だが、ゲーム会社としては"たいした金額"とはいわれない額である。

ちなみにこの新会社、すでに社名は決定し、開発スタッフ、マーケティングスタッフのリクルーティングも開始された。そうそうたる人を集めようということで、スターティングメンバーが優秀な人を求めて縁故関係にコンタクトをとりはじめたと報告あり。

で、問題は、この2億円の調達である。これは初代社長をひきうけた僕の仕事となる。

まずは直球からと、取引先の銀行支店長に電話してみたところ、担当の方から絵に描いたような予想通りの回答。

「つくったばかりの会社さんでは与信がないのでなかなかきびしいかと・・・」と。
「可能性があるとしたらビバリウムさんの決算書をまずはみせていだいて・」とも。

そんなこと、百も承知でかけとるんじゃい!!
久々に電話したっちゅうことは、いままでにない「おもしろいスキームないっすか?」という意味なんだからさ。

僕は、銀行から借りるのが嫌いだ。
足りないときは家を担保にしたり、売れるモンを売っ払ったり、なるだけ嫌なことをいわれない方法で資金調達してきた。
金がまだあるときは、運用益で増やそうと株のネットトレーディングも覚えた。
なるだけ銀行の世話にならないようにやってきた。

金を借りるというのは企業経営の不可避かつ健全な行為である。
だけどそれを避けて通ってきたからビバリウムはスモールカンパニーのままである。

でも今度の会社は前途洋々の合弁会社なのでさ、社長の与信とか個人資産を使うんじゃなくて第三者から調達するのがいいだろうとおもって電話してみただけのことさ。

埒が明かないので、当初の予定どおり、他行のプライベートバンカーのM氏に電話をした。

すると「それおもしろいですね・・、さっそくやり方をちょっと調べてみますね」と。

この人のことだから、ファンドやら、著作権担保やら、今風な手法をどーんと持って来てくれるに違いない。クリエイティブな気持ちで会うことが出来る。だから会うのがとても楽しい。

中小企業の経営者と銀行の関係なんてさ、所詮ヘビとマングースみたいなものなのだから、工夫とか遊び感覚がないとね。とんとん、とはいかないものですよ。

ネタの少ない銀行の皆さん。
いまはアイデアの時代ですよ。
企画を立てましょう。

あー

すっきりしました。

追記**********

調達、目処が立ちましたぜ

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囲み取材

芸能レポーターが突撃取材でマイクをむける風景。いわゆる不意打ちというやつだ。
しかもそれを記録しているという一方的なやり口。
これはかなり、ずるい、と思う。

芸能レポーターはこの一方的なやり方に気づいている確信犯である。しかしこの話しは、なにも芸能人に限った話しではない。社内の廊下でも平然と横行する。しかも、一方的であることに気づいていないから始末が悪い。

今日ぎっくり腰になってしまい、急遽会社に出張の針師に来てもらっていた。ぶざまな姿で会議室で針を打ってもらっていると、突然ドアをあけ入ってきた取引先の人物。

「XXXXの件だけど、XXXXしてもらえないかな?」と彼は話しかけてきた。
ぶざまに不意打ちをくらったような感覚。こういう即答の判断は大概あとで後悔する。

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「とりあえず、斉藤だけつかまえれば、あとはその場でもろもろ確認をとってしまえ」という指示が取引先の会社から出ているのだろうか?と思うこともある。

何の用件かわからないが、予定表に社名と担当者と、「もろもろの件」といった簡単なラベル名が書かれている。何の会議かさっぱりわらかないからあわてて担当者に確認をいれると、「とにかく出てください、斉藤さんの意見をぜひいただきたいんです」とのこと。
事前に内容を確認する云々より先に、その時間が来てしまう。

そういう会議というのは、会議室に入ると、予想以上に先方の同席者が多い。まるで合コンのようである。その瞬間「しまった」と思う。

テーブルの端に置かれた雑貨屋の軒先のように雑多なサイズの書類群。各担当者を簡単に紹介されたあと、唐突にそれぞれの案件説明がはじまる。

それぞれに「これで行きしていたたきたいんですがいいですかね?」という言葉とともに回答を求められる。いいかえれば、即答を迫ってくる。そういうのがつぎつぎと繰り返されると一人の頭脳で即断できる処理量をはるかに超える。

いいたいことはつまり、事前に内容をしらされない会議で回答を求めるというのは、芸能人のスキャンダルの囲み取材のようなものである、ということ。

だから、てんぱっている時こそ、人にますます会いたくなくなるのである・・・。そしてそうしていることで僕は、「かわっている」とか「わがまま」というレッテルを貼られる。

ぶーぶー。

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プロトコル

以下、架空のシチュエーションです。

*******************

「とりあえず、このビデオテープを見てください。」
そういってその会議ははじまった。
会議室には私と中堅の管理職社員、そしてその部下の三名である。

「何のビデオだよ?先におしえてよ!」
私はせっつくが、
「いやいや、まずは、見ていただきたいんです」
担当者は意味ありげにそういうばかり。
しぶしぶそのビデオを見る。
地方局制作のちょとした深夜のドラマのようだ。
どこかで見たことがある若手の俳優と、無名の新人俳優のからみがり、音楽はない。
物語は、うーん、ありきたりのものだ。この担当者は何がいいたいんだ!?という言葉をかみしめていると、ようやくエンドテロップが流れはじめた。
15分後このビデオがようやく終わって担当者に聞いた。

「見たけど、普通の深夜ドラマじゃん。結局、なに?」
「ええ、この映像の編集をおこなったのが、新しいデジタル編集機だそうです。すごく画像が美しく、できれば、弊社で購入したいと・・・・」

「なんだよ、そっち系の話しか・・。そういうことなら、最初にいってくれないと困るよ。もう一度そういう目で見直さなければならならいじゃん・・・」

僕は憂鬱になる。

**********************************

報告する側というのは、いろいろと状況をわかってもらいたいものだ。そのために、それまでの経緯を最初から、なるだけ詳しく話そうとする。でもこれは自分が体験したことをすべて時系列に再現しようという試みであって、その結論は別の次元にあることに気づいていない。親切のようでありがた迷惑であったりする。
聞く側はせっぱつまった仕事の現場で、こういった長い話を始められると、いらいらしてくる。
「結論を先に言えよ」となる。

パートナーを信じれば信じるほど、経緯などはどうでもいいものである。
仕事の報告においてはとくに。

相手にスマートに伝えたいことのであれば、何が言いたいのか、まずそれを冒頭にしらせるべきだ。それでないと、時系列の体験に突き合せれる人がかわいそうだ。
↑のビデオテープでいうならば、ラベルのようなものだ゜と思う。
いいたい事とが一言で表現できない人は、もしかしたら自分でも判っていないことを疑ったほうがいい。

スピーディーな決断がほしいのであれば、受け手の解釈できるプロトコルでなければならいものだと思う。

わたしのせっかちさを理解してくれたのだろうか。あるいは切羽詰った中でこの法則の発見をしたのだろうか?最近のうちのスタッフは、報告が短くなってくれて、すこしうれしい。

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目標という名のゴール

「人はうまれた瞬間から死に向かって邁進する。それが生きるという行為である」
7年前にシーマンに言わせた言葉である。

わざわざ公言することでもないのだけれど、2週間前の今日、肝臓がんの疑いがある、と同級生の医師にいわれた。
「ありゃー」ということでその日のうちに大病院に行き、そして同様の検査、そして一週間たってようやくCT検査。盆を挟んでいることと、そして大病院であることなどから、待たされっぱなしで答えはまだ出ていない。
恐ろしくじれったくもあるが、自分の人生を振り返るにはよい機会でもあった。

かわいい後輩のD.Jが昨年突然新幹線の中で「腹が痛い」といいだして病院にかつぎ運ばれたそうだ。
それから一ヶ月半後、彼は棺おけの中にいた。死因は進行の速い肝臓がんだった。だから僕の意識の中では、この病気はそれはとてもスピードかはやいという印象がある。

だから2週間前からずっと、万が一のときにはこれからどう生きるべきか考え続けている。
結果によっては、手術や延命措置のために、多くのメンバーと3年作り続けてきたシーマン2(周囲の人はみな知っていたけど、実はこんなに長いこと作っているのですよ。)の開発をあきらめなければならないのだろうか?あるいはPS2があるうちに仕上げることに専念するべきか・・どれが本当には正しい選択なのだろう??

この二週間、恐怖心と隣り合わせの、いわば「飼い殺し生活」だったおかげで、僕はずいぶんと成長したのかもしれない。なぜかというと、自分にとって重要なこと、そしてそれ以外のこと、の境界を曖昧にしてきた霧が、さーと晴れた日々が続いたからである。自分がいますべきこと、というのが、とてもよく見えるのである。

 (十番祭りを挟んで) どうということのない時間を一生懸命にすごしながら、二年前にスティーブ・ジョブスがスタンフォード大の卒業式で行ったスピーチのことばかりが頭をよぎっていたのだけれど、その話をすこし書くことにする。

「実は、私は癌を告知されました。そしてそれからというもの、これほどまでに、今日一日で何をすべきか、明確だったことは日々はない。一日々々がかつてないほど重要でした。みなさんはいま大学を卒業したばかりで、これからなにをしたらいいか、決めかねていることとおもいます。しかし残されている日々が有限とわかった瞬間に、なにをすべきか、明確に見えてくる・・・」というのがそれだ。かなり要約であるけれど。

***********

この原稿を書いている今から8時間後には、第二次の所見が医師から伝えられていることだろう。
「見立て違いでした、ただの良性のものですよ」
そう告げられるとおもっている。
いまの僕のカラ元気の源はこの根拠のない自信だとわかっているのだけれどね、とても元気なのですよ。

もしちがったら・・・どうなるのかな、とときどき考えるけれどね。
それはそれですから。

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お父さんのためのゲーム講座

060714掲載

狭いオフィスに置かれた机に並んで座る男と男。
そこにあるのは煮詰まった停滞感と押し殺したような無言の絶望感。
一人はこの会社の社長であり、もう一人は同社の唯一の社員である。

今日も一本の電話もかかってこない。1時間もあればこなせてしまうわずかばかりの仕事が二人を今日も待っているだけだ。
だが、だからといってそそくさと帰宅の途につくわけには行かない。
ただここにいることだけが、彼らの一日においての仕事らしい仕事なのだから。

この息苦しい重圧感の中でこそ、人間関係の最小単位が存在する。

さて、この二人が相対する敵対関係になるか、それとも協調する良好なパートナー関係になるか、
両者の関係を決める要素とは、いったいなにだろう?

それこそがゲーム理論のスタートである。

「お父さんのためのゲーム講座」

近日公開。

つづく

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合宿研修

060607掲載

今日から一泊の合宿研修にいってくる。
見慣れたオフィスを出て宿泊となると、普段はみせないプライベートな姿をお互いにさらすことになる。それも含めて研修というやつである。

今回は社員だけでなく、契約スタッフも多数参加。
立場や経験を超えて、さまざまな人間がそれによって結束することもあるけど、逆にあの人が好きだ嫌いだ、といったことになりかねないのがチームである。仕事とはいえふだんとは違う距離感で接するのは、メンバーたちにとってはちょっとした冒険でありリスクにちがいない(笑)。そしてそれをまとめてゆく者にとってもね・・・。

みんながんばりましょう!!

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「仮想敵」的団結法

060609掲載

人と人とが仲良くなる最短の方法は「共通の敵を持つこと」、という。まさにそうだ、とおもうのが、誰かと海外旅行を一緒したとき。旅行先に本当に敵がいるわけではないけれど、仲間意識というのが芽生えるものだ。しかも不安な旅先であればあるほど親友になった気になる。仮想敵がふたりに仲間意識を芽生えさせる。

ところが団体旅行だと、逆に派閥ができる。仲間意識の仮想敵が内部に発生する。

おなじ構造が日々の人間関係にもあることに気づく。たとえば自分の会社。中小企業の社長は社員の仮想的だ。

企業というのは小さければ小さいほど、一人の人間が、総務部長と人事部長、経理部長、営業部長をかけもちするものだ。たった10人の会社に、人事専任の部長なんて不要である、というのがその理由であって、たいがい零細企業では社長がすべてをとりしきっているものだ。そして、その状況そのものが会社を大きくさせない理由になっているように思うのである。

では、なぜ社長がかけもちでやっている会社は大きくならないのか?

13年ほど開発スタジオをやっていてわかってきたこと、それは掛け持ちすればするほど、社長の存在が強くなり、社員の仮想敵的存在になるからである。社員数が少ない会社は計画や組織なんて明文化しないものだ。そのつど「もっと急いでくれ」とか、「経費をしぼれ」「ああだ」「こうだ」と、口で厭味な指示を口にする社長は社員たちと相対する象徴となり、社員はいつしか団結する同胞となる。権限がシステムに置換しない限り、社長は法であり、その存在は社員と相対する関係になる。これこそが零細企業の特徴だ。

そうとわかっていても僕はいままで自分の会社を、常に小く、と心がけてきた。たくさん社員を雇用していると、たいへんだから・・・。マネジメントで企画屋である自分の時間のほとんどがとられ、じょじょに商品の品質が下がってくる、という悪循環にはいってしまうのである。

だけれど最近、新しい方法を発見した。
社員と共通の『仮想敵』を作る方法である。ありもしない敵をわざわざ捏造する必要はない。よくよく考えてみれば、敵はたくさんいるのだから・・・競合他社とかいう意味ではなくてもね。取り組まなきゃならならい課題を、理解してもらえば、それが仮想的となるのだから。

で結論からいうと、最近、僕は、この仮想敵をてこにして会社を大きくしよう、と思い出している。ま、あたりまえにいえば「目標」ともなるのかな。

「株式公開でもめざそうじゃないか、」とか。

すると人は、びっくりする。
「そんなことを言い出す斉藤さんをはじめてみた」とね。

たしかにゲームの開発会社が公開などしていいわけがない、とずっとおもっていた。
いまもそうおもう。でも、いつまでも個人企業の開発会社なんかに大志ある優秀な人材がきてくれるわけがない、とくに管理系はね。

だったら、大きくなることそのものを共通の目標にしてしまおう、と思うようになった。そうすることで同じ側で一緒に悩んでくれる仲間がとりあえず増える。

そしてまた、「公開するならば株を持ちたい」と人はおもうようになる。
どうぞ、どうぞ、と最近素直におもうのである。

「うちの株でよければどうぞもってください」とね。

それで同胞になって一緒に問題に取り組んでくれるのならば、創始者としては大歓迎だとおもうようになった。

かつて外部の人で「この人いいなぁ」と思う人に、何度か「うちにこない?」と声を掛けたことがあるけど、大概は断られてきた。なにせ目標は「いいものをつくろうぜ」だけだったからね。

作る側、作らせる側、という相対する関係構造がそこにはあった。でも最近は、考え方がかわってきたせいか、ちょっと内容のトーンがかわってきている。映画「ブルースブラザース」みたいに。、「おい、いっしょにならないか?」みたいな、ね。

そうなってくると、「かんがえてもいいよ」という人が増えてくれた。つくりたいものが山積みのプロデューサーとしては、優秀な人がきてくれることは素直にうれしい。いつのまにか「君たち」という主語が、「おれたち」に変わってくる。目標が僕の外にあると、話し言葉がいつしか相対する関係から、高い目標に立ち向かう同胞のトーンにかわる。この感覚って久しく味わっていない、よいバイブレーションである。

さて、まずは社長探しからはじめないとならない。立派な人がこんな会社に来てくれるかどうかなんて時の運である。とにかくメンバー一同で尊敬できる人を探そう、そしてその人を中心にがんばろう、とおのずとなる。僕も一企画者として会社の商品に貢献するわけだから、責任重大だ。そうなってくると持ち株比率がどう、なんてどうでもいいことになってくる。「おい、みんなで働こうぜ」と、声を大にしていえる自分が、そこにいる。

ということで、僕の興味は「ゲーム作り」から「会社作り」にかわってきているのである。

(志のある人は、どうぞビバリウムに応募しよう!!!)

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劣化させないエネルギー

20060602掲載

大切な財産がデジタルデータであることに不安を抱くことがないだろうか?
それが家族の記念的な写真であっいもいいし、何かを証明する大切なメールであってもいいのだが・・・。

実はここのところ、ちょっとしたミスにより貴重な開発のデータが壊れたり失われる事故が何度かあった。

デジタルというのは、形も重さもないから、失われるのが一瞬だ。そうなったら私たちは人間の手が実に無力である事を痛感する。手というのは形と重さのあるものしか扱えない構造になっているのだ。デジタル情報を救出できない。
それに対して紙に書かれたものというのは、一瞬に消滅することはない。すこしばかり火事があっても探せばなんらか見つけ出すことができる。

写真は三井本館の本社にある金庫室の入り口である。
入れるものなら入ってみろ、といわんばかりの堅牢なビジュアルは、まるで「ルパン三世」のシーンのようだが、財産を守ろうとする人間の執念を感じる。

おそらくここには、三井不動産が所有する数兆円の不動産の権利書や契約書がすべておさめられているのだろう。
その中には、明治以前からの権利書なんてのもあるにちがいない。そういう類のものは間違えなく劣化し,ボロボロの姿をしているはずだが、どんなにそれらがボロボロであっても、堅牢な壁に大切に守られ、諸権利を主張する「形」を懸命に保ち続けているであろう。

それに対してデジタルはセールストークで「劣化しない」といわれ続けてきたけれど、突然に崩壊する。間を待つことなく1が一瞬で0になってしまう。

「変質しないかわりにある日とつぜん無に帰します」というのは、それこそ究極の劣化ではないだろうか!?
いやそれ以前にハードウェアの規格がかわればただの用なしデータになる経験をゲーム業界は幾度となく経験している。名作だろうがなんだろうが、永遠なんてものとは無縁だ。

何千年もの未来に、私たちデジタル人間の努力の痕跡は博物館に展示され、そのとき後世の人々はいまの私たちが数千年前のパピルスを解釈していように、先祖の生活ぶりをしのんでくれるのだろうか?

自分たちの努力と時間の集約が、一瞬で失わせる事故に遭遇した時にそれを痛感する。
この金庫ではないけど、長持ちさせるエネルギーの対象があることを時としてうらやましくおもう。

ゲーム機が入れ替わる時期がちかづいてきている。
たくさんのデータ資産の「突然劣化」があちこちでおきるにちがいない。

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リクルートOB

5月19日 (今日から日付をいれることにしました)

かつてリクルートという会社に勤務していたことがある。
どういうわけか、このリクルートという会社はここ数年ビジネス界で話題になっているようで、メディア曰く「人材の宝庫」だそうである。
「優秀なリクルートOBを紹介してくれないか」そういってくる大物経営者に何人も遭遇したことがあるから、財界の間でもこの噂は十分な説得力とともに広まっていたにちがいない。

メディアでも定期的に、そういう特集が組まれるのだが、そういうときの何回かに一回は、どういうわけか僕にも取材の声がかかる。今週発売のAERAもそうで、リ社の事業を検証する記事であるにもかかわらず、僕がギターをもった間抜けな写真で登場している。
記事を見た同期入社のBから「かっこわるい」と叱られた。特集内容からすると確かに浮いている。なんでこんな写真が掲載されているかについては、あとで述べたい。
(ちなみにリ社という表現は、リクルート事件の時に新聞によって発明された表現で、社員たちはこういう表現をしない。僕も使ったことはないのだが、今日初めて使用することにする)

10年前ほど前に、リ社の広報経由で読売新聞から同じような取材依頼を受けたとき、丁重にお断りしようと、電話で記者と直接はなしたことがある。
「僕の仕事はラーメン屋みたいなもの、過去のキャリアなんて関係ないものですから、どうか今回はご辞退したい・・・」
そう伝えて電話を切ったところ、数日後、このままの隠喩表現が僕の名前とともに掲載されていたことがある。
(たぶん半数くらいの人は、僕がラーメン屋を営んでいるリクルート社OBと思って読んだに違いない)

バブル崩壊とリクルート事件はペアで日本人に記憶されている。
その後、ダイエーによる株式買収、膨大な関連会社負債、ダイエーからの株式買戻しと体質変化、とリクルートは10年ほどのうちにめまぐるしい変遷を遂げてきた。リ社の社員はそもそもがタフな人ばかりなので(そうでない社員は入社1年以内にだいたいが退職している)リクルート事件の真っ只中でも退職希望者はさほど出なかったが、その後の独立支援制度の導入とITベンチャー景気で、ずいぶんな数の社員が独立したと聞く。
この時期、僕のところにも何人もの後輩から「独立したいので話をきかせてくれ」連絡があり、そのうちの何人かと話をしたことがある。
だいたいその内容は決まっていて「なにをやったらいいと思うか」というものだった。
「何をやったらいいかわかんないんだったら、独立しないほうがいいよ」と僕は偉そうにそう返したものだ。

そして昨今、メディアの影響で、「元リクルート社員」というのがあたかもブランドになっているように見える。
目立ちたがり屋が多いのがリ社の特徴だから、それまで匿名的に勤務していた元社員が、ここぞとばかりに独立し、雑誌に出てみたり、本を出したり、講演をしてみたり、とあちこちで目にする機会がある。

今日、親しくしていただいているリ社の古き先輩・そして同期入社の現役社員と食事をした。
彼らの話を聞く限り、リ社特有のモーレツな社風は一切なくなり、風土も組織もずいぶんと変わったそうだ。
1.4兆ほどあった借入金は、あと1千億程度まで返済が済んだというから、銀行もびっくりしているに違いない。

一方、ベンチャーバブルに乗っかったOB系経営者のほとんどは、かつてのリクルートの類似サービスとか、あるいはどこかのクライアントの雇われたチーママに見える。つまり本社社員よりも昔を引きずっているわけです。その証拠に著書やプロフィールや肩書きに「リクルート」という五文字を多用しすぎというか・・。そういう経緯をずっと聞いていて僕が思ったことはですね、実はいまリクルートにいる社員こそが実はリ社のOBではないか、ということ。OBというは卒業をした者のことである。同じ場所に留まる者に対して、新領域に足を踏み出す者をOBと呼ぶのではなかろうか、とね。

僕はできの悪い社員だったし、なんといってもゲーム作りでは何の付加価値にもならないので、どこどこの会社に在籍していたなんてことはこれまであまり言わないで今日まで来たのだけど、いつしか公然の事実になってしまっている。だからあまり偉そうにいえないのですが、もしリクルートが倒産していたら彼らはここまで堂々と肩書きにこの社名をうたっているのだろうか?と思ってしまうのです。残り1千億の借金返済で依然としてノルマの重圧と戦っている社員のことを考えると、彼らの努力を自分の看板に流用しているみたいでちょっとずるいなぁ、みたいな・・・。

つまり、本当のリクルートOBってのはさ、風土を変え、業態を変え、過去の負債を返済し終わったリクルート社のいまの社員のことをいうのではないだろうか?だってさ、OBがやっている「人材コンサルティング云々事業」よりも本社がやっていることのほうがダンゼンに新しいんだもん。
なぁんてことを思うのであります。

知人が思っているほど僕の会社は裕福ではない。というか、未公開のゲーム会社なんて自転車操業である。
でも僕は、誇りを持って「ラーメン屋」をやっていきたい、と今日思った次第である。

でね、なんでアエラの写真で僕がギターを持たされたかという話ですけど、そうでもしないと、OBが皆変わり映えしなかったからではないか、と思うのですよ。(つまり、ギターをもった写真を撮ったのは私の意志ではありません。念のため・・・)

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突然なる依頼

以前にここで、「態度」とはどんな度合いのことだろう、という話を書いたけど、つい最近、この手の「度合い」めいたことについて、またまたあたらしい経験をしたのでご紹介する。皆さんの意見も聞きたいし。

先週はどういうわけかゲームとは無関係の取材が多い週だった。
新聞社系の某週刊誌記者が訪問してきた際、冒頭で一枚の名刺を私に差し出した。
それは、その日その記者が同じ目的で取材していた国会議員の人のものだった。
この議員は、中学高校、そしてかつて在籍していた企業でも後輩だった人物である。個人的に親しいという関係ではないので、ずいぶんと長い間話した記憶がない。
「お願いしたいことがあるのでメールをくれ」といった内容の走り書きがそこには走り書きされていた。

「お願いしたいことがあるからメールをくれ・・・か・・。後輩なのにずいぶんとあつかましいメッセージだなぁ」
伝言役を果たしてくれた記者さんに、愚痴をこぼすと相手もバツが悪そうに苦笑いをしていた。

とはいうもののどんなお願いかわからない。そのまま無視するのもどうかと思い、簡単なあいさつ文をしたため名刺のアドレスに送っておいた。

すると、しばらくして、「パーティー券を買ってもらえないか。売れ残った場合は自腹で云々・・・ノルマがきつく云々」といった文面のメールが届いていた。
十年以上ぶりの相手に出すメールにしては、私がどの政党を支持するか、を確認することもなく、仕事の近況をたずねることもなく、また忙しい中で書いたのか、社交辞令的なことも、とくに書いてない。最低限の時間だけで自分の必要としていることだけが書かれたメールであった。

実は数年前に彼から援護金以来のDMが届いたことがあって、いい経験だと思って会社で小額だが献金(っていうのかな?)をしたことがある。
政治的な施策への思いからではない。縁故知人としてのものであるから、彼からどんな返事が返ってくるかなと、経理部スタッフともども楽しみに待ってたのだが、結局何もないままだった。こんなものか、ということになり、じゃ献金などは二度とやめておこうとなった。

私が以前にいた大企業というのは、個人個人のノルマがきつく、強引ともいえる営業スタイルで批判をされてきた企業である。営業マンは、メリットがありそうなクライアントが見つかると、徹底的に喰らいつき、うまみがないとなると、効率を重視してそそくさと次の顧客探しに移ることを徹底して教育される。毎日のように連絡をしてきた営業マンが、発注書に捺印したとたん疎遠になることにクライアントから多くの苦情が寄せられていたが、営業マン本人たちは社内の受注競争に夢中で、ヒーローにならんと目が中に向いてしまっている。
目が外に向き懇切丁寧に顧客をフォローする営業マンは、新規受注効率が伸び悩み、社内では評価されないことになる。

退職してもこういうスタイルのまま自己中心的にやっているこの会社のOBを何人も知っていて、どこの業界に行っても「唐突に電話がかかってきたかと思うと、虫のいい話を突然はじめる・・」という愚痴が後を絶たなかった。じゃ、自分はどれだけできているか、となるとなかなかできていないんだけどさ。(笑)

中小や零細企業でも、きっちりしている人というのはいるもので、こまめに挨拶状を送ってきたり、歳暮や中元や、どこでききつけたのか引っ越し祝いなどをおくってくる。こういう会社の経営者から依頼ごとがあると、なんとか力になりたいと思うものである。

いつか困ったらお世話になりたい人というのがいる。そういう人とは、意識せずとも連絡が滞らないものである。人はいざ困ったときのために日常の挨拶を欠かさないようにしているのかもしれないが、年配の人ほど経験柄それを知っている。だから年配の人ほど挨拶はしっかりとしている。そして僕は40代の半ばに差し掛かった。だからこういうことに気づいてしまう。
そんな経験からいうと、困ったときに唐突に連絡をとっても、まったくの無駄である。そんな関係で、人はぜったいに助けてくれないから連絡なんか取らないほうがいい。

もしどうしても連絡をするならば、なるだけ面倒くさい手がいいと思う。郵便のようにアナログで手がかかる方法であれはあるほど、受け手の印象がちがうものだ。

だから、僕は今回この後輩によい経験をさせてもらったと思っている。当たり前のことだけど、忘れてしまいがちなことだから。

さて、この国会議員の話に戻ると、僕は、この後輩に、「虫が良すぎないか!?」と手厳しい内容のメールを返すべきか、あるいはあたりさわりのない形で遠まわしに断るか、はたまた、こんなことを考えている僕がただの頑固オヤジなのか・・・判断しあぐねている。

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恩恵の奴隷

「概念」なんてものには形も重さもない。それを扱う仕事というのはやっかいである。

ことチームでの仕事となるとなおさらである。一言で言うと、空気を、酸素や二酸化炭素や窒素やそれ以外の未知な気体に分別するような仕事といえる。そんな仕事をしていると、「裸の王様」に出てくる仕立て屋が、影も形も重さもない洋服をあたかも本当にそこにあるかのように扱うしぐさをするような羽目になる。。

実はいまプロジェクトで擬似的な人工知能と人口発話をつくっているのであるが、扱っている内容が「概念」とそして「ふつうの日本語」であるからまったく手におえない。口で説明をするにしても、どれが「検証素材」でどこまでが「その人の言葉」なのか判別できず禅問答のようになってくる、会話に「」マークはつけられないからね。

実はビバリウムでは人工知能と人口発話、の研究開発をやってきた。
専門的なアプローチではない。エンターテイメントに使えるような台詞回しは、ひとすじなわではつくれないから、コロンブスの卵の発想と独自のスタイルで暗中模索してきた。

たとえぱ名詞のイントネーションだけで11種類の音声スタイルがある。文字原稿ではどれも同じに見える。

11種類に至るまで、名詞のイントネーションに11種類ものスタイルがあるとは誰もわからなかった。音符で記述するわけにもいかず、だから番号をつけ、つなげたり組み合わせりしながら、名のない気体の種類を互いにいちいち確認しながらすすむわけである。そんなものが一日に2030もやりとりされると、言った言わないは茶飯事で、担当者が忘れてしまったらそれでそのまま失せてしまう。失せても名前も視覚イメージもないので、指摘がきわめて困難である。品質の管理なんていうにおよばず、あまりにじれったすぎて、ちょっとやそっとの忍耐力ではできない。ましてや忘却の彼方に失せた概念は、第三者が見つけることができない。

大学の研究機関がやるならいざしらず、零細の民間企業が自転車操業の利益をけずりながら何年もやるようなことではない。ビバリウムという会社はこれをずっとやりつづけている。数えると、すでにそれをはじめて6年が経過したが、嬉しいことに、最近すこしづつその片鱗が見え始めてきた。O君という根気強く優秀なエンジニアがいてくれなかったら、ここまで具体的になってはいなかったかもしれない。O君ありがとう。

話しは変わるが「言った言わない」の発生頻度といえば、混雑しているレストランのオーダーに勝るものはない。

ひさびさにデニーズのカウンターで食事をしていたら、こんなモニターを見つけた。

この日のデニーズは、めまぐるしいほど忙しそうだったが、そこには「言った言わない」に指先で触れる店員たちの姿があった。

店員は、「XZ番のオーダーどうなっているんだ」と、明確な指摘ができる。「これ」といえる対象があるのとないのでは、理解は雲泥の違いがある。

具体的に指摘できねものがないと、じれったさがフラストレーションとなり、仕事はおろか人間関係まで破綻してくるのである。

「僕らはいままでなにをやっていたんだろう?」

へんてつもないシステムであるにもかかわらず、それを使う店員の仕事ぶりを間近に見てそう痛感した。

僕たちは最も遅れているのかもしれない。

開発会社というのはコンピューターが商売道具なものだから、実はその使い方についてはかなりバランスを欠いている。社内のエンジニアはExcelでマクロを組んで簡易システムをつくってしまうとか、宛名ラベルにプロジェクト名を打ち出す、とか、伝票に電子捺印して転送する、などといったごく簡単な応用について、とても疎いと思う。マシンはコーディングのためにある、という風潮があるから、WordもExcelも、バージョン2.0程度の機能しか使っていない。

デニーズの風景は、まずコンピューターの恩恵に授からなければならないのは僕たち自身であることを思い出させてくれた。気がつくと、人を楽しませようとするがあまり、コンピューター奴隷になってしまった僕たちがいる。

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隠れた天才

連休のテレビ特番で、おりがみの職人技を紹介していた。
一枚の紙で五段重ねの折り鶴をつくってしまう、といった類の技である。

以前にもおりがみ選手権で勝ち抜いてきた人たちが登場する番組をみたことがある。頭がいいなぁとつくづく思った。いや、頭がいい、ではなくて「天才」である。

作り方を説明されると、「なるほどねぇ!」となるわけですが、もし自分がなにかあたらしいおりがみ作品を「つくってみろ」といわれたら、鬱を通りこえて発狂してしまうのではないか、と思ってしまう。それくらい複雑な高度な発想だと思う。

これってかなり頭脳がよくないとできないことです。学問的にいうと、どの分野になるんだろ?3Dだから数IIIかな?
娘の受験でサイコロの目が見えない面の合計を求めよ、ってのがあったから、算数の延長なのだろうか? いやいや、あの手の問題ってさ、計算式が存在しないからさ、直観力と構成力でしかなし得ないのではないかな。つまり学問ではなくて特殊な人間の能力ではないだろうか? 学問ってのは、誰かが発想した方法論を習得することだもん。

実は、同じような感動を、デジカメとか携帯電話のダンボールをバラしている時に感じるのである。外箱と中の仕切り関係がたった一枚の板で組まれていること、気づいた方いますよね? かくいう僕も資源ゴミのコーナーで解体しながら、「ほぉー」といつもながらに感心してしまう。そのうち、どこどこの外箱は芸術点が高い、などと資源ゴミコーナーでの作業がちょっとした楽しみになってきているわけです。


↑デジカメの中仕切り。これも一枚のダンボールでできた作品

外箱なんてものはさ、ただ捨てられる運命の、いわばコストに過ぎないパーツだからメーカーとしてもなるだけ面どりを一枚ですませたいという哲学があってのノウハウだろう。

だが心配なのはこういう芸術的なデザインをする部署の人々までが、コストとして扱われてはしないか、ということである。

おりがみの日本代表みたいな天才の人が大手企業に就職してその天賦の才をこういう資源対応に発揮していたとして、結局彼の待遇までコストダウンの対象になってしまっていたとしたら・・・せっかくの天賦の才があまりに悲しい。

実はここのところ、アメリカの大学と日本の大学の違いを調べていたのでちと触れます。

アメリカ企業と付き合っているとね、いわゆるキャリアっていう人がはっきりとしているのですけど、彼らのほとんどが大学院出身者で、ただの大学卒はアメリカ企業社会ではともすると下っ端みたいな扱いを受けているのを多く目にするのです・・。

だって具合のよくない時期のアップルですら、マネージャー職はみんな院を卒業しているのです。大学卒だけじゃキャリア足りないよ、とでもいわんばかりにね。でも仕事をしていて、さほどレベルが高いとは思えない。日本の大学院を出た人って、学者にちかいからね。

でも彼らからすると東京大学法学部卒、が、「なんだ、ただの大卒か。」なわけですが、日本人からみると、「スタンフォードのマスターがそんなに凄いのかね!?」と思いたくなってしまう、東大がすごい、といつも思っているわけではないのだけれど・・。

で、興味をもって調べていたら日本の戦後教育の制度づくりにこの二つの国のプロトコルのバグ原因があることがわかってきたわけです。いうまでもなく6-3-3制ってのはアメリカにならったもので、それまでの旧制中学や旧制高校はヨーロッパ型。

でアメリカは大学院はそもそも大学から独立した施設としてつくられたものであるのに対して、日本は議論に決着がつかないまま、国からのたいした助成金がつかず4年教育大学の付随機関としてのスタートとなってしまったそうな。

だから、アメリカの大学で学ぶ4年間というのは、いわば大学院の専門に対しての教養課程に近いものだそうです。教養といっても4年間あるからには徹底していて、討議とか(ディベートってやつですね)自然科学とか、きっちりと分野が確定されていて、少人数でやる。しかも飛び級があるからがんばればはやく大学院に進める。(大学院はGraduate Schoolっていいます)

日本はその教養を前半の二年間で、専門を後半の二年間でやっている。短期間でやるからどうしても中途半端になる。で卒業したら、「大卒」。

飛び級がないから、大学を卒業して22才、そこからさらに専門を学ぼうとすると、さらなる年月を学費の高い大学院ということになるわけで、結果、日本は大卒に溢れたという次第のようです。

じゃ、そもそも大学って何だ、という話になるわけだが、本来の義務教育やその後の高等教育とは異ならなければ意味がない。本来の意味はさ、生徒と講師が対等に学ぶ大人のための機関、である。

つまり義務教育が決められた分野の勉強に費やされるとするならば、大学っていうところは、分野になっていない未分化の分野を開拓したり、特殊な才能を見出して「おりがみつき」にするところではないか。

しかし日本の大学ってのは高等教育の延長になってしまっているもんだから、たとえばおりがみの才能をもった天才たちは、日本の大学を出たとしても、その才能は趣味の延長としてしか扱われず、開花しないまま、となってしまうのではないか・・・・と。

一枚の紙を駆使して立体を造形できる才能・・・。この貴重な才能を国家の財産としていかせる国にしたいものだ、と思った僕に、そんな力があるわけでもなく、だったら大学のゲームを作ってみようと密かに思うのであった・・・。

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「態度の度合」の究明報告

漢和辞典にも何ものっていなかったけど、一晩考えてやっとわかりました。「態度」が何の度合いの意味なのか・・。そもそもこんなこと一晩考えている状況じゃないのだがね。

さてその結果だが、「態度」の度は、採点結果の点数という意味である。その意味ではやはり「温度」や「湿度」と同じように、度合いを示すカテゴリーの言葉である。

ではどういう度合いなのでしょうか?
それは、他人に対してその人の振る舞いの品位の点数という意味です。つまりね、観察者が「振舞い方がよくないぞ」「気に食わないな」という意味なのですが、そう表現したのではあまりにも観察者一人のエゴとなってしまう。これでは説得性がなくてよろしくない。仲間を集い対象者を叩くための大儀とはならない。日本社会ではなにをするにも仲間と大儀が必要なのであるからして。

そこでこれを「度合い」として客観の事実としたいわけである。

「気にくわない」を言い換えて「品位の点数がよくない」とするといかにも大儀となる。国会でいちゃもんをつける際に「国民の血税をつかって・・・」と野党がいうのと同じでね。

それで、態度、である。
今回の究明結果は、我ながらの大発見となった。
じゃみらの死亡年度が1994年だと、科学特捜隊の本部が練馬区中村橋だと、特定した功績に匹敵するかもしれない。(くわしくはまた今度ね)

この手の表現のすげ替えというのは、よくよく見回すと周囲にいっぱいある。小さいチームは気をつけないと悪者にされてしまうよ。
たとえばね、新規事業を提案してほしい、と依頼してきた企業から、
「いただいた提案は検討した結果、当社のドメインとは異なるという判断が下りました。ぜひまたの機会を・・」という、もっともらしい大儀の断り文句が来るのに似ている、「ごめん、この企画、よくわかんないわ」では断ったことで悪者になっちゃうからね。(でもさ、新規事業とは異なるドメインに進出することをいうんじゃないか?と)

これと同じで、つまり態度が悪い、の度合いは「態」の集計得点と見せるための「度」である。ま、要するにそこにあるのは自己を正当化したいという観察者の強い欲求であり、対象者を孤独に感じさせるための多勢の威圧感であり、なんといっても徒労を組んだ多勢による集団意識なのである。

つまり「態度」とはマイノリティーに使われる言葉であって、仮に「態度が良い」といわれたところですでに採点された結果、つまりやや見下された視点による表現なのだろう。

となるとだ、前回のBLOGで若者に態度がよくない、と感じた僕はいったい何様なんだ!?

だいたい、こんなことを明け方に書いている僕は、たぶんとてもひねくれものだ。
だがゲームの企画者なんて、そんなものさ。
ものごとを数値化することしか考えていないんだから・・・。

かなり煮詰まってるいぞぉ・・・・と。

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温度、湿度、態度

「おまえの態度はよくないぞ」
「態度でかいな」

という表現句があって、僕は若い頃からよくそういわれてきた。

いつしかそういわれることがなくなってきたけど、僕は態度が改善されたのだろうか?

それとも年齢とともに、態度の基準も緩和されるのだろうか?

昨日、都内某所である若者と話していて「この人は態度がよくないな」と思った。思ったのだけど、何がよくないのか、具体的に指摘しろといわれてもわからなかった。その人物には悪意も作意も敵意もない。なにもないから、「態度」というしかないのかもしれない?

そもそも、態度って、よく使う言葉であるのに、こちらも実は意味がよく分かっていない。得てして態度というのは、あまりよくない意味に使われることが多いことだけはわかるのであるが・・。

度という言葉は客観的な指標、あるいはレベルを表す意味合いである。

温度、湿度、節度、限度、・・・とかね。

だから恋愛度とかホモ度、フェチ度とかM度、といった造語であっても意味はすぐににわかる。

だが、態度となると、なにの程合いを指し示しているのかまったくわくらない。もし態度を直すにはその度合いを改めればよいにちがいない・・・とは思うのだが、それが何だかわからないからなおらない。度という言葉をつけた以上、きっとなにかのレベルがあるはずにのだが・・・。

でもそれは何だろう?

態度ってなんだろう?

つづく

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いやがる脳と、追い込む僕、それを助ける神様

苦しみもがいている。
納期の重圧と企画の枯渇・・。

四畳半受験生ではないが、週末は画面に向かいながら生活の用を足すしかない。

昨晩、土曜出勤のスタッフらと行った居酒屋で、ウーロンばかり飲んでいたのは土曜日が週にたった一回しかないから。土曜日はいい。いちばん好きな日である。たいがい土曜日はこぼれた仕事が入っているから、そのまま流れて酔っ払っちゃいがちだが、そうするとまた一週間待たなければならない。それくらい土曜日は貴重なのである。日曜日は翌週からのことで落ち着いてアイデアを練ることができない。

というわけで、昨日は帰宅してからかれこれ5時間を過ぎたあたりだろうか?神様が降りてきてくれた。僕は幸運だ、と思うことがよくあるんだけど、煮詰まって煮詰まって、嫌がる脳の尻をたたきながら3時間くら集中していると、神様が「とんとん」とドアを叩いてくれることがある。
「はい、なんでしょ?」
「あ、わたし神様ですけど、今日はこんなアイデアお持ちしましたけど。」
そういって唐突に欲しいものを置いていってくれるのです。
一晩たってみると役立たずの時もあるけど、たいていは、小躍りするくらい、そこにはいいアイデアが置かれています。

この一瞬のために僕は毎週平日、会議をしているような気がする。
膨大な情報が消化不良のままインプットされ脳の中でじゅくじゅくと発酵して、脳が充血してくるのがわかる。(本当) そのうちほとんど痙攣してくる。
そんな混乱と複雑の中で、いつしかマリア様の一筋の光をまつ状態になる。
そのまま帰宅し、神様を待って待って、でももう来ない、と意識不明になる日々。
そういうのが続いていると、思考は混迷しはじめるのだが、ある瞬間、発酵が連鎖反応して、その後にきれいな金色をした変な形をしたもの(映像と言葉と感触のまざったもの)が出現するのである。それまでの論理的な思考とは唐突で前後関係がなく、でもきれいにつながってくれるもの。たいがいは「なんでもっと早くに思いつかなかったんだろう」というもの。

この発酵連鎖する瞬間というのは、突然やってくる。条件は、いつも頭の中にそれがあること。幽霊と同じで、こうすれば出会えるというのはないが、おきやすいのは、飛行機の離陸のときが一番。次はドライブしているとき、あと映画館の中、移動しているときがいいみたい。しかも、締め切りぎりぎりの、「あとがない」というとき。

だから、本当は神様というよりも、自分で企画の踏ん切りがついただけのことかもしれないと思うのだが、すくなくともそれまでは自分では見えてないのだからそう呼ぶしかない。

ということで、昨日4月22日(実質23日)の未明の神様の言葉は、「崖とダイアモンドと信頼度」です。くわしくはいえないけど、ばらばらでホーキンスの統一理論が待たれていたここらの企画のバラバラさに終止符が打たれた。(と信じている)

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内圧と内燃機関のビジネスモデル

内圧の話の続きである。

内圧が高まるというのは、危険な状態が続くことを意味するわけで、内部のスタッフのコンディションが良好な状態ではなくなる。体力的にも精神的にも消耗し、平たく言えば、「毎日続けることができない」ような状態になるわけである。

ちょうど、風船自動車であれば、ピストンで空気を「ぐー」と押し入れているような状態。風船が膨らみピストンに入る力も強く限界に近くなってくる。タイミングを見計らってそしてリリースすると空気の力で自動車は走り出す。
早く走ればヒットだし、長く走ればロングセラー、途中で風船が破裂したらプロジェクト失敗。僕たちがやっているゲーム制作というのは、この風船自動車のような仕事だ。

作品づくりというのは毎回毎回内容が刷新されていなければならないものだから、この風船自動車に、あたらしい風船をつけて、そのたびに空気を入れて走らせているようなものだ。走ったらしばらく休みをとって、また気持ちも新たにあたらしい自動車の設計に取り掛かる。

映画がそうであるように、一本一本がチャレンジであり、かつギャンブル的である。世俗的にいう「水商売」に近く、安定はない。

だからゲーム製作会社が株式公開することは基本的にはない話だ。ゲーム出版会社であれば、話は大きくちがうが。

製作と出版の違いはなにか、という話になる。
製作は映画スタジオ、出版は配給会社である。
この違いを十年以上ずっと考えてきた。

ピストンで走る風船自動車は、単発で一瞬走るだけで継続はしない。
そこで、もっと長く走れるようにと、ピストンの直線運動を回転構造に当てはめたのが人類の大発明「内燃機関」である。内燃機関は、弁と燃料を利用して、ピストンが何回でも自動的に押される構造をつくったものだ。いわば直線運動から回転運動へ以降したのである。

直線運動というのは、イベント労働のようなものだ。ゲームの製作スタジオ会社が毎回アイデアを考えては、リスクの高い仕事にチャレンジするのがこれにあたる。
一方、回転運動というのはルーチンである。いくつもの製作スタジオがつくる作品の中からその年々にめぼしいものを数点ピックアップして配給する、いわばインフラビジネスである。きめられた印税を製作者に払いさえすれば、めがねになかった作品をタイミングよく流すだけ。これを毎年繰り返すわけである。ネットの音楽配信の会社もこれである。チャネルが広がればよい作品もあつまってくるので好循環に乗ることができる。ミュージシャンのようにスランプもなければ、挫折もない。なんといっても担当者に稀有な才能を集める必要がない。この循環が繰り返せば、一定サイクルでちゃりんちゃりんとお金がはいってくるわけだ。

こういう仕事は、僕のように40代の経営者にとっては身を削らなくてもよい分羨ましくもあり、クリエーターとして退屈な仕事でもある。クリエーターとって興味の対象となる仕事ではない。

黒澤明が設立した黒澤プロは、黒澤明氏自身が撮る作品以外は手がけなかった。中心となる人物が働かないと儲からないし、メインピストンがとまったら車も止まる、というしくみである。公開などできわけがない。公開するより生命保険の掛け金の方が似合っている構造だ。主活動が「個人の創作活動」なのだから。

ところが配給会社はそうではない。多少リーダーの力量が影響するものの、社長が交替したからといって潰れるわけではない。システムとともに会社は存続するのであって、これこそが「事業」というものである。

だから、もし楽をしたいのであれば、ピストンを「回転」に置き換えなければならないわけである。ピストンを押し込むのは人一倍強い力と忍耐力がいるけど、回っている回転を止めないようにするのであれば特定の才能をもったスタッフでなくてもできる。幅広い分業体制にもってゆきやすい。

ゲーム会社を創業した経営者が陥りやすいのが、このふたつの混在である。公開しようとしたがあまり、衰えていったゲーム会社は少なくない。
一方で、公開しているゲーム会社の社長にクリエーター出身者がいないのが、いや計画にいうとゲームにこだわる人がいないのが、この分業体制にもってゆくための秘訣である。

僕の会社は、究極の単気筒エンジンだ。誰からからもそう指摘される、悪い意味でね。だから公開なんて考えたことものなかった。だからいまだに潰れずにいる。

だが、事業にはならない。単気筒であるうちはね。
大玉といまつくっているシーマン2はかなりの開発期間がかぶっているが、外部会社と内部を使って僕が無理してしてふたまた掛けただけのことであって、僕自身の体力と集中力からすればもうこれが限界でこれ以上伸びようがない。

世界のルーカスフィルム、は株式公開していないし公開する予定もないだろう。
もしルーカスフィルムが株式公開したら、一瞬それなりの高値がつくかもしれないが、代表のジョージルーカスがIR活動している時点でスターウォーズの製作は断続状態になるに違いない。数年に一本のタイトルしかできないのだから右肩上がりの業績も望めない。株式公開していたら、それが原因でいまごろつぶれているにちがいないのである。公開する必要がない、いや、してはならない会社の代表例である。

つづく

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ものづくりの「内圧」

気持ちのいい日曜の朝。
ジョギングをした。
そのまま帰ればいいのに、帰りに食事をしたら、そのあと急激にトイレに行きたくなった。腹痛による約6分の悶絶状態を乗り越え、爆発寸前で自宅のトイレに駆け込みぎりぎりセーフ。

苦痛とともに走りながら悟った。
「この"内圧上昇"こそがすべてのクリエイティブの原動力だ」と。(爆)

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まったくものを作れない、という人がたまにいる。意図的ではない。だがその徹底ぶりは見事なほどである。そういう人と一緒にひとつの仕事をすることになった。まったく異なるi系業界の人なのだけどね。

彼は彼なりにものづくりへの覚悟はしている。明晰だしそしてまた話もおもしろい。だけど、いざ具現化という段階になると、ぱったりと止まる。そこからはどういうわけかからっきし次にうつれない。紙ぺら一枚の成果すらあがらないのである。

だから、この人とのコラボレーションはすべて「口頭」でとなった。そうなると双方記憶だけが頼りとなる。概念論から発展させていざ形に、となった途端、仕事のやりとりか突然とまるのである。手を動かしてラフをつくっても、直しを依頼しても、それを送信した時点で返事がとまってしまう。返しがないからこちらも疲弊する。どうやら、具体的になると彼は返事を返せなくなってしまうらしい。理由はわからない。忙しい、という類の事情のせいではない。

実は彼は無能ではない。逆に彼は、現状を切り回して維持するのは、とても得意な人である。毎日同じ職務を繰り返す。回転運動のように、振り子のように、ひたすら同じことを一生懸命にやる。コツも心得ている。すでに稼動しているサービスを運営するだけでいい、という上司やクライアントからみると、実に使いやすく優秀な人材にうつると思う。

きっとそんな彼は彼なりに考えたのだろう。「このままじゃつまらない。自分でも商品をつくりたい」と・・・。そして僕という奇想天外系アイデアマンと出会い、ごく自然にプロジェクトははじまった。

こういうタイプの人というのは、どの業界にも絶対にいる。
ぜったいに筆をとらない人。食事を会議とする人。そして携帯電話とことばだけで仕事をする人。0を1にはできないけれど、1をすこしづつ増やしていける、という自信がある人。

事業というのは、しっかりとした商品基盤があれば、たいがいがこのスタイルで成り立つようだ。薄利多売だ、といいながら、ひとつのノウハウを繰り返すことで利益を生み出すことができる。ある意味、うらやましく思う。

例を挙げると、ある商品を売る仕事。
画期的とまではいわなくても、商品はそこそこしっかりとしているからがんばれば売れる。部下の営業マンにああだこうだとやり方を教えて、すこしづつ人数をふやしてゆけば会社もそこそこ伸びる。
飛行機にたとえれば、失速しないようにだけ気をつけるのがコツ。続けると距離をかせぐことはできる。いったん飛んだ飛行機を飛行させ続けるには、できるだけ変化がないように同じことを繰り返す持久性が問われるわけである。

だが、飛行の最初に必要な離陸、これがビジネスでいうと商品開発となる。ここには別の方法論が必要となる。水平飛行の亜流だと思ってこの開発をなめてかかると、「事業の立ち上げ」は立ち上がらずじまいで失速することになる。

飛行機ではシャフト(車輪軸)にブレーキをかけ止まった状態のままジェットをふかし、最短加速準備の状態をつくりだす。シャフトがおれる寸前までエンジンを回転させ、「内圧」を高めたところでブレーキをリリースし、一気に加速離陸する。

このプロセスは機体への負荷と、そしてパイロットの緊張が一番高まるといよわれる。商品をつくる、というのはこの離陸に似て、多くのコストとエネルギーの消費を集中し、無駄を許容しなければならない。そしてうまくいったときだけそのあとに弛緩のカタルシスが続くことになる・・。

このカタルシスについては成功談として多くの書籍や番組などで語られてきた。誰もが「産みの苦しみ」という言葉を知っているし、わかったつもりになってしまう。
だが、この産みの苦しみという「つわもの」は、一筋縄ではいかないものだ。

14年前、家内の出産に立ち会った。出産というのはまさに壮絶な光景である。
生み出されるものは、高くなるだけなった内圧を利用して破裂するように膜をつき破って出てくる。同時に多くの排出物をもが排泄される瞬間である。産物が大きいと、内圧も高く痛みも大きい。こらえきれずに早産したくなることもあるし、タイミングを間違えると致命的事故になる。
大量の出血と痛みを伴うが、痛みが消えはじめる瞬間ともいえる。この瞬間こそがカタルシスである。

ものづくりをしていて思うのであるが、この内圧をあげてゆくプロセスで下手に排出物を押さえ支出を節約しようとすると、リスクへや恐怖は減るが離陸を失敗することがある。実にハイリスクなプロセス、それが「ものづくり」の工程である。

「0」が「1」に変えられる劇的瞬間。内圧が破裂する瞬間である。
ここに必要なこと、それはそこに続く子育てのルーチン作業の忍耐力とはまったく異なるものだ。一緒独特の「適性」が必要なのかもしれない。コラボレーションは、この「内圧」への準備姿勢を確認しておかないと、できないのかもしれない。

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ストレスの単位

「ストレスが原因ですね」
よくわからない病状に出くわすと、医者はみなそう言う。

この万能なる原因を言い渡された人は、実は最近多いのではないか?

今ここ数ヶ月の自分をつぶさ観察していて、自分がストレスを感じる構成要素というものを分析してみた。

そもそも、人間は、どんなことをするときにも多かれ少なかれストレスを感じることがわかった。朝バスがこない、めがねを忘れて大切な書類が見えない、コンビニで小銭が1円たりない、帰宅してなかなか靴が脱げない・・・。なんでも、である。
ただ、それらが微数であるがため四捨五入され日常の中で吸収されてゆくだけの話だ。

じゃ、僕が四捨五入して繰り上がるストレスの最小のものが、いわゆるストレスの最小単位となるわけだが、それらにはどんなものか、という話になる。
おそらくそれは、何かをしている時に「ちょっといいですか?」と声をかけられた瞬間の不快感ではないかと思うのである。

あるいは会議で込み入った話をしているときに携帯電話がなる瞬間。つまり第三者によって本来の意図と異なるものに遮られた感覚。これがストレスの最小単位、つまり1ストレス、ではないか、と。たとえば、前方に他の車が強引に割り込もうとしてきた瞬間など、が1ストレスである。

社会生活をしている以上、すべて自分の理想通りにいくわけがない。
その原因と遭遇した瞬間、これが、1ストレス。つまり、相手に責があるわけでなく、ただ自分の進路が妨害されたとき、といえるかな。

その次は、仕事でよくあることだが、唐突に即答を求められるケース。たとえば、「すみません、時間がないので一つだけ確認させてください、ええとXXXの件ですが、これどうしたらいいですか?」といった質問。情報がなさ過ぎて回答不能のままうろたえてしまう。これが1.5ストレス。
あるいは普段いっさい連絡をよこさない人から「突然で悪いんだけど、XXさん紹介してもらえないかな?」と懇願されるようなケース。これはけっこうストレスが高い。

こういう判断というのは予想外にストレスフルである。そもそも判断というのは材料がないとできないものである。アドリブじゃないんだから。その点で「根回し」というのはとても重要だ。

Yes. or No
とか
Aコース、Bコース、ウルトラCコース のどれがいいか?_
など、選択肢が、長所短所とともにあれば選択はできるのにさ。

だけどWhat とか、Howのようなまるなげ系の質問はずるい。言い方を変えると、これは開梱する手間を疎んで、そのまま箱をどーんと投げつけるようなものだ。「質問」という名を使った巧妙な「仕事の振り替え」である。ここに即答をという条件が加わると、時として人は小さなパニックとなる。

そして最後に、最小単位としては最高位の2ストレス、それが、意図不明な案件に強引に巻き込まれるケース。
悪気がなくても苦痛を伴なう。
たとえば、
「斉藤さん、ちょっといいですか?」と声をかけられて、足を止めた瞬間、ここぞとばかりに、物語調の長い説明はじまってしまうケース。
「ええと、実はですね、昨日、M社のDさんから電話がきまして、サーバーがディスクの不良セクターで起動しないというんですよ。でも僕としては、それじゃ埒が明かないから再インストールを提案したんですけど、M社さんの担当者が「再インストールするには上司の確認を取らなきゃいけない、というんですね。でもその上司の方が携帯電話を会社に置きっぱなしで帰宅されたものですから、だったらバックアップサーバーに切り替えてもらったほうがいいと思ったんですよ。そのほうがロス時間が少ないわりには安定起動が期待できると思いますし。なので、そう伝えたら、非常に丁寧な回答をもらいまして、先方としてはバックアップサーバーというのは・・・・・」
延々と聞かされる。しまったと思ったときはもうストレスがあがり始めている。その話の行く末は、果たして質問か、それとも単なる連絡かかわらないまま最初の1分が過ぎた時点で、およそ2ストレスである。

私たちの周囲にあるたいがいのストレス値は、この三つの反復と加算によって計算されるのではないか?

やや強引だが、こうやって整理すると、ストレスというのは、次の3つの基本要素によってすべて構成されているようにおもうのである。

1. 進路妨害されること・・・・・1Point
2. 唐突な質問に回答を求められること・・・1.5point
3.行き先不明な電車に乗せられること・・・2Point

すこし強引かな?
こういう話を人にすることそのものがストレスなんだよ、っていわれそうだ。